森保 一(Hajime MORIYASU)
フルネーム 森保 一(モリヤス ハジメ)
国籍 日本  
出身地 静岡県掛川市
生年月日 1968・8・23
身長 173cm
体重 68kg
利き足
ポジション MF(DMF)
FK PK  
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1992・5・31
アルゼンチン戦
代表背番号 6 15 17
W杯メンバー  
ニックネーム ぽいち
個人タイトル  
チームタイトル 92AFCアジアカップ
92,95ダイナスティカップ
94ファーストステージ 
所属クラブおよび背番号 出場 得点
87/88 マツダ(JSL1部)
88/89 マツダ(JSL2部)
89/90 マツダ(JSL2部) 18
90/91 マツダ(JSL2部) 19
91/92 マツダ(JSL1部) 18
92 サンフレッチェ広島    
93 サンフレッチェ広島 35
94 サンフレッチェ広島 40
95 サンフレッチェ広島 25
96 サンフレッチェ広島 26
97 サンフレッチェ広島 7 25
98 京都サンガ 7 32
99 サンフレッチェ広島 7 27
00 サンフレッチェ広島 7 22
01 サンフレッチェ広島 7 16
02 ベガルタ仙台 27 27
03 ベガルタ仙台 27 18
豊富な運動量を誇り、鋭い読みやポジショニングでのインターセプト、危険なスペースのカバーリングをこなす守備専業のMF。立場上派手さはありませんが、そのプレーは堅実でキャプテンシーも備えており、チームになくてはならない存在です。

静岡県に生まれますが、父親の仕事の関係で転居を繰り返し、長崎県に住んでいた小学6年時に友達の影響を受けてサッカーを始めます。進学した中学校にサッカー部がなかったため隣町の中学にあるサッカー部で練習していました。2年時にサッカー部が設立され、市の大会で決勝に進出します。しかしPK戦にもつれた試合でキックを失敗し準優勝に終わりました。
一度は小嶺監督率いる国見の受験を考えたものの、競争が激しく出場機会に恵まれないと考えました。この頃は中学の先生から長崎日大へ特待生として推薦するという話も来ていたため、最終的に同校への進学を決意します。高校3年間は国見の前に高校選手権出場はならなかったものの、国体のメンバーに選ばれました。
卒業後、1987年4月にマツダ(現広島)へテスト生として入部。オフト監督にも1年間指導を受けました。3年目にしてようやくプロデビューを果たし、得点力も発揮。91/92シーズンには1部昇格を果たしました。92年ナビスコ杯では8試合1得点とレギュラーに定着、Jリーグデビューも1993年5月16日、市原(現千葉)との開幕戦で迎えました。
バクスター監督の下、司令塔である風間をはじめ、FW高木、ノ・ジョンユン、ハシェック、チェルニーと、リーグ屈指の攻撃陣を擁する中盤の守備をほぼ一手に担っていたといっても過言ではなく、94シーズンの1stステージ優勝の大きな原動力であったのは言うまでもありません。
95シーズンに就任したヤンセン監督には攻撃的MFとして起用されますが順位は低迷、2年連続で天皇杯に準優勝したことが慰めとなりました。その後クラブが経営難に陥り、98シーズンにオフト監督率いる京都にレンタル移籍します。この恩師はシーズン途中で解任されますが、その後の清水監督から信頼され、腕章を巻いて32試合に出場しました。
99シーズンに広島へ復帰します。27試合に出場しますが、このころからケガが目立つようになり、自身3度目の天皇杯決勝には出場できずタイトルも逃しました。その後も森崎和など若手にポジションを明け渡すことが多くなり、01シーズンを最後に広島を離れました。
そして、京都時代に師事した清水監督が率いる仙台へ。広島で共にステージ優勝を経験した片野坂、元日本代表小村といったDF陣と岩本などの攻撃陣をつなぐ役割を果たしますが、2年目に降格となり、戦力外通告を受けて35歳で現役生活を終えました。
その後は2006年アジアユースや翌年のU−20W杯に出場したチームのコーチを務め、12シーズンから広島を率います。エース佐藤寿が22得点で得点王になるなど得点はG大阪(67)に次ぐ63、失点は横浜FM(33)に次ぐ34と攻守に高質のプレーをサポーターに披露し、監督未経験ながらチームを初の日本一に導きました。
JSL1部:18試合4得点 JSL2部:37試合16得点 J1リーグ:293試合15得点

マツダ時代に師事したオフト監督が日本代表に就任、彼の初陣である1992年5月31日のアルゼンチン戦にてスタメンで代表デビューを飾ります。以降は浅野とポジションを争いながら、ダイナスティ杯やアジア杯優勝に貢献しました。
1994年W杯予選は11試合出場と存在は不動となり、司令塔ラモスの展開力を最大限に発揮させましたが、「ドーハの悲劇」により本大会出場は夢と消えました。
ファルカン政権の序盤は柱谷哲がボランチだったため出番がありませんでしたが、1995年ダイナスティ杯では2度目の優勝に貢献しました。
代表記録 35試合1得点

余談
・ニックネームの「ぽいち」は、本名を「森 保一」と誤解されたことから来ています。
2011年3月5日:新規アップ 2016年2月24日更新

12サンフレッチェ広島 (J1優勝)
  佐藤寿人  
高萩洋次郎 森崎浩司
清水航平 ミキッチ
森崎和幸 青山敏弘
水本裕貴 森脇良太
  千葉和彦  
  西川周作  

15サンフレッチェ広島(J1優勝)
 佐藤寿人(浅野) 
柴崎晃誠ドウグラス
柏好文ミキッチ
青山敏弘森崎和幸
水本裕貴塩谷司
 千葉和彦 
 林卓人