森岡 隆三(Ryuzo MORIOKA)
フルネーム 森岡 隆三(モリオカ リュウゾウ)
国籍 日本  
出身地 神奈川県横浜市
生年月日 1975・10・7
身長 180cm
体重 71kg
利き足
ポジション DF(CB)
FK PK  
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1999・3・31
ブラジル戦
代表背番号
W杯メンバー 02年
ニックネーム モリ
個人タイトル 99Jリーグベストイレブン
00AFCアジアカップ最優秀DF
09Jリーグ功労選手賞
チームタイトル 96ナビスコカップ
99セカンドステージ
99/00アジア・カップウィナーズ・カップ
00AFCアジアカップ
01天皇杯
所属クラブおよび背番号 出場 得点
94 鹿島アントラーズ
95 清水エスパルス 25
96 清水エスパルス 23
97 清水エスパルス 11 30
98 清水エスパルス 11 26
99 清水エスパルス 11 26
00 清水エスパルス 11 27
01 清水エスパルス 11 30
02 清水エスパルス 11
03 清水エスパルス 11 25
04 清水エスパルス 11 29
05 清水エスパルス 11 23
06 清水エスパルス 11 10
07 京都サンガ(J2) 6 22
08 京都サンガ 6
的確な状況判断によるラインコントロール、コーチング、カバーリングと卓越した頭脳を武器にトルシエ監督の「フラット3」を操ります。また、正確なフィードで攻撃の起点にもなります。
カラーリングやピアスと華美な外見とは裏腹に、福祉活動に積極的な面も持っています。

兄の影響により幼稚園時代からボールになじみ、小学1年でクラブに入って本格的に取り組むようになります。桐蔭学園中には一般受験で入学しました。
高校時代は李国秀監督による密度の濃い練習で才覚を現します。そしてMF山田卓や廣長が在籍するチームで右SBとして1年時から高校選手権に出場します。1度目は長崎の国見に、2度目は京都の山城に2大会連続でPK負けを喫しました。
高校を卒業して鹿島に入団します。1994年8月17日横浜M(現横浜FM)戦でJリーグデビューを果たしますが、両足のすねを疲労骨折してシーズンが終わりました。
95シーズンに清水にレンタル移籍し、堀池や内藤の存在により左SBとしてプレーします。11月8日には元の所属である鹿島からプロ初ゴールを奪いました。翌シーズンに完全移籍となりますが、リーグ戦で10位と低迷する一方ナビスコ杯で初優勝と天地を味わいました。
アルディレス監督2年目となる97シーズンにCBに固定され、斉藤俊とのコンビで才能を開花させます。これにより守備が安定したチームは98シーズンに年間3位、ナビスコ杯ベスト4、天皇杯準優勝、99シーズンに初のステージ優勝を果たすなどチーム躍進の原動力となりました。自身はベストイレブンにも選ばれますが、チャンピオンシップを負傷で棒に振りました。
00シーズンは天皇杯決勝で鹿島に敗れますが、翌シーズンに優勝しました。02シーズンはケガや病気が重なり3試合の出場に終わりました。
05シーズンに青山直の台頭で出番が減り移籍を志願します。07シーズンにJ2京都に移り、主将としてチームを鼓舞してJ1復帰に貢献しました。2年目は水本や手島のバックアッパーとなりJ1残留を果たして引退。その後は京都などで指導者になっています。

日本がベスト8になった1995年Wユースは松田の控えに回りました。1999年3月31日ブラジル戦でフル代表デビューすると、招待国としてプレーしたコパ・アメリカでは井原や秋田との3バックで3試合出場、この大会を境に自身を中心とした世代交代が起こりました。
2000年シドニー五輪ではGK楢崎、MF三浦淳とオーバーエージで参加します。予選で奮闘した宮本からポジションを奪い主将も任され3試合に出場、松田、中澤とのフラット3でベスト8になりました。アジア杯では服部、松田とフラット3を形成、後者と位置が入れ替わる試合もありましたが、全6試合戦い日本2大会ぶりのトロフィーを掲げ、最優秀DFに選ばれました。
2001年コンフェデ杯は4試合に出場、松田、台頭した中田浩とのフラット3でフランスとの決勝まで零封で勝ち進み、フル代表の大会最高の準優勝になります。翌年のW杯も中心としての活躍が期待されましたが、ベルギーとの初戦で負傷して宮本にポジションを明け渡しました。
ジーコ監督のチームでも秋田、名良橋、服部との4バックで4試合に出ましたが、2003年6月8日アルゼンチン戦で4失点して世代交代が図られ、代表から離れました。
代表記録 38試合

2015年1月23日:新規アップ