フルネーム フェルナンド・モリエンテス・サンチェス
国籍 スペイン
出身地 トレド
生年月日 1976・4・5
身長 186cm
体重 79kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1998・3・25
スウェーデン戦
代表背番号 7 9 10
W杯メンバー 98年 02年
ニックネーム モロ
個人タイトル 03/04UEFAチャンピオンズ・リーグ得点王(9得点)
04UEFA最優秀FW
チームタイトル 97/98,99/00,01/02UEFAチャンピオンズ・リーグ
98,02FIFAインターコンティネンタル・カップ
00/01,02/03リーガ・エスパニョーラ
04/05FAカップ
07/08コパ・デル・レイ
09/10リーグアン
09/10フランスリーグ・カップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
93/94 アルバセテ
94/95 アルバセテ 20
95/96 サラゴサ 29 13
96/97 サラゴサ 37 15
97/98 レアル・マドリー 15 33 12
98/99 レアル・マドリー 15 33 19
99/00 レアル・マドリー 9 29 12
00/01 レアル・マドリー 9 22
01/02 レアル・マドリー 9 33 18
02/03 レアル・マドリー 9 19
03/04 レアル・マドリー 9
03/04 モナコ(フランス) 10 28 10
04/05 レアル・マドリー 8 12
04/05 リヴァプール(イングランド) 19 13
05/06 リヴァプール(イングランド) 19 28
06/07 バレンシア 9 24 13
07/08 バレンシア 9 22
08/09 バレンシア 9 19
09/10 マルセイユ(フランス) 23 12
両足から放たれる精度抜群のシュートと、高い打点のヘディングでゴールを量産する生粋の点取り屋です。ポストプレーも秀逸で、収めた後の選択肢で攻撃の幅を広げます。

93/94シーズンにアルバセテでプロのキャリアを始め、1月7日のビルバオ戦でリーガデビュー。2年目に20試合で5ゴールとまずまずの結果を残しました。
その後サラゴサに引き抜かれて頭角を表します。1年目に13ゴールを挙げ、翌96/97シーズンは途中に加入してきたキリ・ゴンサレスのアシストもあり、ヒホン戦でハットトリックを決めるなど勢いに乗りチームを1部に残留させます。中堅クラブでの15ゴールという結果は移籍市場で熱い視線を受けることになり、カペッロ監督率いるR・マドリーに引き抜かれます。
親友となるラウールをはじめ、ミヤトヴィッチやシュケルと実力者が並ぶ前線でも好調をキープし、チーム最多の12ゴールを挙げました。リーグでは4位でしたが、チャンピオンズ・リーグでは準々決勝と準決勝でゴールを挙げ、32年ぶりの欧州制覇に貢献しました。翌シーズンは無冠でしたが、シュケルをベンチに追いやり19ゴールをマークします。99/00シーズンのリーグ戦ではラウールに次ぐゴール数で存在感を示すと、チャンピオンズ・リーグでも決勝では先制のヘディングシュートを決めて自身2回目の欧州制覇を成し遂げました。
00/01シーズンはケガで満足な数字を残せませんでしたが、2度目のリーグタイトルを獲得し、インターコンティネンタル杯でも1ゴールを挙げます。翌01/02シーズンは第25節ラス・パルマス戦での1試合5ゴールなどランキング2位の18ゴールをマークしました。好調のグティと自身の起用を巡る論争の中でフル出場し、3度目のビッグイヤーを獲得しました。
02/03シーズンはロナウドの加入でベンチが定位置となり、出場機会を求めてモナコへレンタル移籍します。同じ長身FWのプルソがサイドに流れるため共存に成功。ロテンというアシスト役の存在も大きく2ケタゴールを挙げます。チャンピオンズ・リーグでも快進撃を見せ、準々決勝でR・マドリーと対戦、1戦目にアウェーゴールを挙げてR・マドリーのサポーターから喝采を浴びると、2戦目でも逆転のヘッドを決めて古巣を粉砕。続く準決勝チェルシー戦でもホームとアウェーでゴールを挙げました。ポルトとの決勝戦ではポジショニングに苦しみ、主将ジュリの負傷による途中退場もあり敗れましたが、9ゴールで得点王に輝き最優秀FWになりました。
04/05シーズンにカマーチョ監督がR・マドリーに就任。自身も復帰しましたが、オーウェンの加入で再びベンチを暖めることになり、冬に11億円の移籍金で同胞が多数所属するリヴァプールへ移籍します。しかしプレミアの水に合わず活躍には至りませんでした。
06/07シーズンにスペインに復帰。ビジャとの補完性の優れた2トップを結成し、チャンピオンズ・リーグ初戦オリンピアコス戦でハットトリックを決めます。しかしケガに悩み、チームもビジャの1トップという布陣を敷くことになったため出場機会が減少しました。
09/10シーズンにマルセイユに就任した恩師デシャンの要請を受け、再びフランスへ渡ります。そして国内2冠を果たし、契約満了に伴い現役を引退しています。

1995年Wユースでは5試合出場、ノーゴールに終わりますがベスト4になります。翌年のアトランタ五輪では2試合に出場、チームは準々決勝で敗退しました。
1998年3月25日スウェーデン戦で、6分間で2ゴールを挙げる鮮烈なフル代表デビューを果たします。同年のW杯メンバーにも入り、ブルガリア戦で2ゴールを挙げました。しかし2000年欧州選手権のメンバーからは落選しました。
2002年W杯予選では本拠オーストリア戦で2ゴールを挙げ、代表復帰を自ら祝います。本大会ではレギュラーとして5試合で3ゴールを挙げましたが、ベスト8で敗退しました。
2004年欧州選手権ではギリシャ戦で先制点を奪うものの得失点差に泣き、グループリーグで敗退しました。2006年W杯予選はスロヴァキアとのプレーオフでゴールを挙げますが、F・トーレスやビジャの台頭により3大会連続の本大会出場はなりませんでした。
代表記録 47試合27得点
※:フェルナンド・モリエンテス(Fernando MORIENTES)
2007年2月11日:新規アップ 2012年9月16日更新