水本 裕貴(Hiroki MIZUMOTO)
フルネーム 水本 裕貴(ミズモト ヒロキ)
国籍 日本  
出身地 三重県度会郡
生年月日 1985・9・12
身長 183cm
体重 72kg
利き足
ポジション DF(CB)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 2006・10・4
ガーナ戦
代表背番号
W杯メンバー  
ニックネーム ミズ
個人タイトル 12Jリーグベストイレブン
14,17Jリーグフェアプレー個人賞
チームタイトル 05,06ナビスコカップ
12,13,15Jリーグ
15セカンドステージ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
04 ジェフ千葉 27
05 ジェフ千葉 27 15
06 ジェフ千葉 4 25
07 ジェフ千葉 4 31
08 ガンバ大阪 4
08 京都サンガ 8
09 京都サンガ 8 33
10 京都サンガ 4 34
11 サンフレッチェ広島 4 18
12 サンフレッチェ広島 4 34
13 サンフレッチェ広島 4 34
14 サンフレッチェ広島 4 34
15 サンフレッチェ広島 4 33
16 サンフレッチェ広島 4 17
17 サンフレッチェ広島 4 34
18 サンフレッチェ広島 4 31
19 サンフレッチェ広島 4
19 松本山雅    
粘り強いマンマークや空中戦と1対1の能力が突出し、キャプテンシーも持つDF。本来はCBですが、両サイドも難なくこなします。ビルドアップに成長の余地を残しています。

三重県度会郡御園村に生まれ、FW小倉を擁する四日市中央工が高校選手権を制覇したことに影響を受け、小学3年の時に地元の少年団でボールを蹴り始めます。当時から器用さを見せて前線からGKまでこなし、小6の時に選抜チームに入りました。
地元の御園中に進んだもののサッカー部がなく、近隣のクラブではサイドハーフでプレーします。2年時に監督の助言でDFにコンバートされて選抜チームに入りました。
四日市中央からもオファーが届きますが、家から通える三重高に進学します。2年時に国体に出場して注目を集めるようになります。また、市原(現千葉)の練習に参加しました。3年時はインターハイに出場し、大熊監督の目に留まってU−18代表に招集されました。
高校卒業時には5クラブからオファーを受けますが、自身へ高評価を下し、オシム監督の存在も決め手となって市原への入団を決意します。2004年6月20日大分戦でJリーグデビュー。出場機会は少なかったものの、スロヴェニア代表ミリノヴィッチや日本代表茶野など実力者の存在に影響を受けます。7月30日のR・マドリーとの親善試合では先発、世界最高峰のWGフィーゴ相手に互角のマッチアップを演じ、首脳陣からの評価を上げました。
そして06シーズンから主力に定着します。ブルガリア代表ストヤノフらと3バックを組み、守備陣で不可欠の存在となってナビスコ杯を連覇しました。
08シーズンから強豪G大阪へ。元市原ユースの先輩である山口智や中澤聡とのポジション争いに敗れ、ベンチを温める機会が増えました。五輪を控え試合勘を取り戻すためにシーズン途中に京都へ移籍し、元代表DFでキャプテンだった加藤監督の薫陶を受けます。
3年目はシーズン途中で監督交代がありましたが、自身初の全試合出場を果たします。J2降格となり広島へ移籍して槙野の穴埋め役として期待を集めますが、第10節甲府戦で頭がい骨を骨折します。しかし3ヶ月で復帰する脅威的な回復力を見せました。2年目に全試合出場と完全復活を遂げてチームのリーグ初制覇に貢献し、ベストイレブンに輝きます。3年目も千葉や西川との守備陣で盤石な体制を築き、粘り強く戦った末にV2を成し遂げました。
7年目は自身5度目の全試合出場を果たし、チームが低迷する中にありながらも2度目のフェアプレー個人賞を受賞。攻撃でも甲府相手に決勝ゴールを挙げました。
9年目は出場機会がなく、松本へレンタルされています。

大熊監督の下で臨んだ2005年Wユースでは、左SBとして全4試合戦い決勝トーナメントに進みました。反町監督の北京五輪予選でも主力として活躍、途中で伊野波からキャプテンマークを引き継ぎました。本大会では3試合戦うもグループリーグ敗退に終わりました。
2006年10月4日には自身の成長を見届けたオシム監督によりフル代表デビュー。その後の岡田、ザッケローニ両監督からも招集されています。
代表記録

2008年8月7日:新規アップ 2019年8月6日更新