三浦 俊也(Toshiya MIURA)
フルネーム 三浦 俊也(ミウラ トシヤ)
国籍 日本  
出身地 岩手県釜石市
生年月日 1963・7・16
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1991〜91 SVバイデン(ドイツ)
1992〜93 BWウルフェルト(ドイツ)
1994〜96 BV04デュッセルドルフ(ドイツ)
1997〜97 ブランメル仙台コーチ
1998〜98 水戸ホーリーホック
1999〜01 2004〜06 大宮アルディージャ
2007〜08 コンサドーレ札幌
2009〜10 ヴィッセル神戸
2011〜11 ヴァンフォーレ甲府
2014〜   ベトナム代表
獲得タイトル  
釜石南高を卒業後、大学では強豪の駒大に在籍しました。しかしレギュラーではなかったため卒業後もプロへ進むことはなく、地元岩手県に戻りました。

大宮に変革をもたらし、韓国代表コーチや監督を務めた経験を持つオランダ出身のピム・フェルベーク監督の影響を受けています。守備面ではゾーンディフェンスを徹底させ、カウンターを仕掛ける時もあれば、ポゼッションを重視した攻撃も見せる時もあります。
フォーメーションは中盤フラットの4−4−2を採用。ドイツ仕込みのコーチ理論も展開します。

岩手へ帰省した後養護学校で働き、母校の釜石南高でコーチも務めていました。やがてドイツでのコーチングライセンス取得制度を知り、27歳の時に単身ドイツに渡りました。
その後苦戦しながらもドイツ語を習得し、ケルンスポーツ大に入学。そこで5年半もの間コーチ理論を学びドイツA級ライセンスを取得。ドイツで監督キャリアをスタートさせました。
日本に帰国して1996年にS級ライセンスを取得します。97シーズンに仙台(ブランメル、現ベガルタ)のコーチに就任し、終盤は采配を振るうチャンスにも恵まれました。
98シーズン、旧JFL水戸に就任して日本でのキャリアをスタートさせますが、8勝しか挙げられず14位と低迷し引責辞任しました。その後大宮のコーチに就任し、ピム監督から戦術やメンタリティなどを吸収、00シーズンに監督に昇格して4位でシーズンを終えますが、浦和など上位にはほとんど勝てませんでした。そしてオフにFWバルデス、バレー、代表経験もあるMF安藤正裕、DFトニーニョなど積極的な補強を施します。前半戦こそ躍進したものの、戦術そのものだと例えられたバルデスの負傷離脱により失速して5位で昇格を逃し辞任しました。
解説者を経て、04シーズンにふたたび大宮に就任します。安藤を京都から呼び寄せると、成長著しいバレーに加え、森田浩史やトゥットといったシーズン途中に加入してきたFWが結果を残したこともあり11連勝を記録、シーズン順位を2位で終えてJ1昇格を果たしました。
05シーズンはMF藤本主を獲得。得点源のバレーが去り、後半は7連敗を喫する苦しい時期もありましたが、強豪G大阪に勝利し残留を果たしました。翌シーズンはFW吉原、MF小林大、DF土屋、波戸など即戦力を一挙に獲得するものの12位に終わり、辞任しました。
07シーズンよりJ2札幌に就任。堅守からスピードのあるダヴィを生かしたカウンター攻撃を見せ、東京Vを勝ち点2差でかわしてチームを6年ぶりのJ1復帰に導きます。ダヴィこそコンスタントに点を取って得点ランク2位になったものの、このエースへの依存度が極めて高く、守備も精彩を欠いてシーズンを通して厳しい戦いが続き、史上最速タイで降格が決まりました。
成績不振で辞任をした後は解説者を務めましたが、09シーズン途中に神戸からオファーを受けると、持ち前の経験で16位とチームを残留させます。翌シーズンはエヂミウソンやポポといった即戦力を引き抜きますが、22試合を終えて5勝6分11敗と精彩を欠き解任されました。
11シーズンからはJ1に昇格した甲府に就任。市川や伊東を獲得して守備を強化し、攻撃面ではハーフナー・Mが好調を維持しますが大きく負け越し、途中で解任されました。
2014年にベトナムからオファーされ、フル代表と五輪代表兼任の監督となっています。
2007年7月1日:新規アップ 2014年7月4日更新

06大宮アルディージャ
桜井直人 吉原宏太
藤本主税 小林大悟
純マーカス 小林慶行
冨田大介 波戸康広
土屋征夫 トニーニョ
  荒谷弘樹  

08コンサドーレ札幌
中山元気 ダヴィ
西谷正也藤田征也
芳賀博信純マーカス
坪内秀介西嶋弘之
西澤淳二曽田雄志
 高木貴弘