三浦 文丈(Fumitake MIURA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 三浦 文丈(ミウラ フミタケ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 静岡県静岡市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1970・8・12 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 174cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 72kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(CMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | FK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | |||||||||||||||||||||||||||||
代表背番号 | |||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 95ファーストステージ | ||||||||||||||||||||||||||||
99Jリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
04ナビスコカップ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
93 横浜マリノス | 24 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
94 横浜マリノス | 38 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
95 横浜マリノス | 16 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
96 横浜マリノス | 23 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
97 横浜マリノス 11 | 27 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
98 横浜マリノス 11 | 18 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
99 京都サンガ 8 | 23 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
99 ジュビロ磐田 34 | 5 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
00 ジュビロ磐田 7 | 21 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
01 FC東京 10 | 27 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
02 FC東京 10 | 2 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
03 FC東京 10 | 26 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
04 FC東京 10 | 22 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
05 FC東京 10 | 14 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
06 FC東京 10 | 9 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
スピードある突破からゴールを狙うFW、あるいは試合を読む洞察力や豊富な運動量などボランチとしても機能します。また、抜群のキャプテンシーで精神的支柱になります。 清水に生まれ、小学2年の時に三保第一サッカースポーツ少年団でサッカーを始めます。翌年には清水FCに入り、6年時に全国大会を制しました。清水第五中時代は、3年時に全国大会決勝でMF永井秀擁する大分の明野中に敗れて全国制覇を逃しました。 強豪清水商入学と同時にジュニアユース代表に招集され、キャプテンに抜擢されました。3年時には高校選手権に出場、キャプテンとして藤田俊、名波、山田隆と最強のメンバーをまとめ、3回戦仙台育英戦ではFKで試合を決めるなど、母校を2度目の全国制覇に導きました。 日産(後の横浜M、現横浜FM)など複数のオファーがあったものの、筑波大に進学。4年時にキャプテンとして関東選手権、関東大学リーグ、総理大臣杯制覇に貢献しました。 大学卒業後に横浜Mに入団し、1993年5月22日名古屋戦でJデビュー。第9節横浜F戦ではプロ初を含む2ゴールで勝利に貢献しました。2年目は2ndステージ名古屋戦でハットトリックを達成するなど自己最多の8ゴールをマーク。3年目は1stステージを制しました。 しかし中村俊の台頭で出場機会が減少、その後京都、清商時代の同僚藤田俊と名波擁する磐田と渡り歩きますが、いずれもレギュラー定着はいきませんでした。 01シーズンからFC東京でプレー。2年目にじん帯を断裂するものの3年目には戦列に復帰し、豊富な経験で今野や梶山、石川など若手をけん引します。4年目はナビスコ杯で7試合に出場し、創設6年目のクラブに初タイトルをもたらしました。 06シーズンを最後に引退して指導者になっています。 J1:295試合37得点 1988年アジアユースに敗れて翌年のWユース出場を逃しましたが、筑波大に入学して横山監督に召集されます。バルセロナ五輪予選では澤登や名波と共に活躍し、バーレーン戦ではハットトリックを決めて6−1での勝利に貢献しますが、本大会出場はなりませんでした。 代表記録 2017年7月6日:新規アップ |