箕輪 義信(Yoshinobu MINOWA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 箕輪 義信(ミノワ ヨシノブ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 神奈川県川崎市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1976・6・2 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 187cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 83kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | DF(CB) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2005・10・12 ウクライナ戦 |
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代表背番号 | 3 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ミノ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
99 ジュビロ磐田 22 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
00 ジュビロ磐田 22 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
00 川崎フロンターレ 5 | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
01 川崎フロンターレ(J2) 5 | 36 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
02 川崎フロンターレ(J2) 5 | 40 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
03 川崎フロンターレ(J2) 5 | 41 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
04 川崎フロンターレ(J2) 5 | 36 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
05 川崎フロンターレ 5 | 30 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
06 川崎フロンターレ 5 | 30 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
07 川崎フロンターレ 5 | 30 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
07 川崎フロンターレ 5 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
08 コンサドーレ札幌 35 | 12 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
09 コンサドーレ札幌(J2) 5 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
10 コンサドーレ札幌(J2) 5 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
力強いフィジカルで人に強く、セットプレーでは打点の高いヘディングで得点源となります。練習から全力プレーを見せる真摯な姿勢で周囲からの信頼を集めます。 川崎市高津区に生まれ、幼稚園時代からボールを蹴り始めます。小学時代は津田山FCというクラブで練習を重ねました。向丘中では市内の大会で優勝しました。 高校は私立のセレクションを受けて合格したものの、後に神奈川県サッカー協会技術委員長となる大野真氏の薦めで弥栄西高に進みます。激戦区の同県では全国大会の出場はありませんでしたが、強豪に見受けられる厳しい管理はなく、3年間サッカーを楽しみました。 卒業前、実績が無い状況を考慮して関東圏の大学を断念しますが、大野監督に仙台大入学を勧められます。同大学では多くのDFが卒業したため1年から出番に恵まれました。 やがて北海道・東北地区選抜、全日本選抜チームに入ると、2年時は同ポジションの選手の負傷離脱によってユニバーシアード代表へ追加招集を受けました。 4年時に磐田のスカウトを受けます。中山、藤田、名波、服部と日本代表が並ぶチームの空気を吸収しますが、ハジェヴスキー監督に経験不足を指摘されました。 出場機会を求めて2000年9月に故郷の川崎Fに移籍します。11月11日C大阪戦でJリーグにデビューするものの、チームはJ2に降格しました。 その後の石崎監督には右ストッパーとして起用され、伊藤宏や寺田との連携を熟成させます。03シーズンは勝ち点1差で1部昇格を逃しましたが、04シーズンから就任した関塚監督の下でも主力として活躍、2位の大宮に18ポイントの差をつける圧倒的な強さでJ1に復帰し、拡声器で「川崎市民で良かった」と地元出身ならではのパフォーマンスも見せました。 その後は他チームと互角に渡りあい、06シーズンはG大阪や鹿島相手にゴールを挙げて勝利に貢献して優勝圏内にチームを押し上げました。翌シーズンはACLにも出場して決勝トーナメントに進出するなど、クラブ躍進の原動力となりました。 その後札幌へ移籍し、10シーズンを最後に現役を退いています。 2005年8月の東アジア選手権に臨むメンバーに29歳にして初めて選ばれ、川崎F初の代表選手となりますが、突発性難聴を患い辞退しました。 2ヶ月後の10月12日ウクライナ戦でフル代表デビュー。しかし終了間際にペナルティエリア内でファールの判定を受けてPKを献上し、敗北を喫しました。 代表記録 1試合 2018年4月5日:新規アップ |