ジョン・オビ・ミケル(John Obi MIKEL)
フルネーム ジョン・マイケル・ンチェクベ・オビンナ
国籍 ナイジェリア
出身地 ジョス
生年月日 1987・4・22
身長 190cm
体重 80kg
利き足
ポジション MF(CMF)
FK PK FK
キャプテン経験 代表
代表デビュー 2005・8・17
リビア戦
代表背番号 8 9 10
W杯メンバー 14年 18年
ニックネーム  
個人タイトル 05FIFAワールドユースシルバーボール賞
06CAFアフリカネーションズ・カップ最優秀若手選手
チームタイトル 06/07,08/09,09/10FAカップ
06/07,14/15イングランドリーグ・カップ
09/10,14/15プレミアリーグ
11/12UEFAチャンピオンズ・リーグ
12/13UEFAヨーロッパリーグ
16リオデジャネイロオリンピック銅メダル
所属クラブおよび背番号 出場 得点
02/03 プラトー・ユナイテッド    
04/05 リン・オスロ(ノルウェー)
05/06 リン・オスロ(ノルウェー)
06/07 チェルシー(イングランド) 12 22
07/08 チェルシー(イングランド) 12 29
08/09 チェルシー(イングランド) 12 34
09/10 チェルシー(イングランド) 12 25
10/11 チェルシー(イングランド) 12 28
11/12 チェルシー(イングランド) 12 22
12/13 チェルシー(イングランド) 12 22
13/14 チェルシー(イングランド) 12 24
14/15 チェルシー(イングランド) 12 18
15/16 チェルシー(イングランド) 12 25
16/17 チェルシー(イングランド) 12
17 天津泰達(中国) 10 13
18 天津泰達(中国) 10 18
18/19 ミドルスブラ(イングランド2部) 2 18
19/20 トラブゾンスポル(トルコ)    
ドリブル、プレースキックの精度、視野の広さ、柔らかいボールテクニックに加え、冷静沈着で利他的なメンタリティも備える現代的なプレーヤーです。

17歳でノルウェーのリンの下部組織に入団して2ねんプレーします。マンチェスター・Uのファーガソン監督が3年間追い続け、2005年にクラブ間で移籍が合意になります。
しかしチェルシーにも自らの保有権があり、自身も同クラブへの移籍を望んだため、この移籍は白紙になりました。そして最終的にチェルシー行きが決定、マンチェスター・Uに違約金の約25億円と所属元のリンに約8億円を支払うことで3つのクラブが合意に至りました。
ランパード、バラック、エッシェンとワールドクラスがそろう中盤にあって当初はベンチでしたが、2006年8月20日マンチェスター・C戦でプレミアリーグにデビューします。そして欠場しがちなマケレレの穴を埋め、シーズン途中からスタメンに名を連ねました。しかしリーグのレディング戦、リーグ杯決勝アーセナル戦では一発退場になるなど若さも見られました。
08/09シーズンはマケレレの退団やエッシェンの離脱で多くの出場機会を獲得します。攻撃面はもちろん、カバーやプレスといった守備のスキルも飛躍的に向上、不動のセントラルMFとしての地位を確立させて翌シーズンの開幕前に5年契約を結びました。一時ケガで戦列を離れましたが、2010年2月のアーセナル戦ではプレミア100試合出場を果たすなど、25試合に出場してプレミアとFA杯の2冠を達成しました(後者の決勝は不出場)。
2011年の夏に父親が誘拐されますが、その中で国内リーグ22試合に出場、チャンピオンズ・リーグでは9試合に出場してクラブ初のビッグイヤーを獲得。翌シーズンはユヴェントスとシャフタールに連覇を阻まれました。4試合に出たヨーロッパリーグでは優勝しましたが、D・ルイスが中盤で起用されたため、決勝での出番はありませんでした。翌シーズンもマティッチの加入もあり24試合にとどまりましたが、フルハム戦で8年目にして移籍初ゴールを見せました。
16/17シーズンはコンテ監督の構想から外れて10年以上過ごしたロンドンを離れ、冬に中国へ移ります。そして2年の契約を終えてミドルスブラで18試合に出場しました。
その後トラブゾンスポルへ移籍しています。

2003年U−17世界選手権では3試合1ゴール。2005年Wユースでは7試合出場してスイス戦でゴールを挙げるなど、準優勝に貢献してシルバーボールを受賞しました。
同年8月17日リビア戦でのフル代表デビュー後、翌年のアフリカ選手権ジンバブエ戦で初ゴールを挙げます。2008年のアフリカ選手権では4試合で1ゴールを挙げたものの、北京五輪は監督との確執により本大会メンバーから外れました。2010年アフリカ選手権では4試合、W杯予選では7試合プレーしますが、ヒザを負傷して本大会メンバーから外れました。
2013年アフリカ選手権で6試合先発して優勝。コンフェデ杯はウルグアイから同点ゴールを挙げるも勝ち越され、スペインも同居するグループリーグ突破はなりませんでした。
2014年W杯予選は6試合、本戦も4試合とオナジとのセンターを築きます。しかしフランスとの決勝トーナメント初戦でこの相棒をケガで失い、チームも終盤に崩れました。
2016年リオ五輪にオーバーエージで出場、10番と腕章を着けます。劣悪なチーム事情の中、デンマーク戦とホンジュラス戦で試合を決め、銅メダルの原動力になりました。
2018年W杯予選は6試合に出場してアルジェリアとカメルーン戦で連続ゴールを決めました。本大会では3試合に出ますが、1勝2敗で早期敗退となりました。
代表記録

余談
・自身をチェルシーに紹介したスカウトは、かつてブラジルからロマーリオやロナウドを発掘してヨーロッパに連れてきたことで知られています。
2006年8月6日:新規アップ 2019年8月5日更新