リヌス・ミケルス(Rinus MICHELS)
フルネーム マリヌス・ヘンドリクス・ヤコブス・ミケルス
国籍 オランダ  
出身地 アムステルダム
生年月日 1928・2・9
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1965〜71 アヤックス
1971〜75 1976〜78 バルセロナ(スペイン)
1974〜74 1986〜88 1990〜92 オランダ代表
1975〜76 アヤックス・テクニカルディレクター
1978〜80 ロサンゼルス・アズテックス(アメリカ)
1980〜83 1.FCケルン(西ドイツ)
1988〜89 レヴァークーゼン(西ドイツ)
獲得タイトル 65/66〜67/68,69/70エールディヴィジ
66/67,69/70,70/71オランダカップ
70/71UEFAチャンピオンズ・カップ
73/74リーガ・エスパニョーラ
77/78コパ・デル・レイ
82/83西ドイツカップ
88UEFA欧州選手権
首都アムステルダム生まれ。9歳の誕生日にスパイクを手に入れてボールを蹴り始めます。1945年に地元のアヤックスに入団して翌年にトップデビューすると、ヘディングを武器にFWとして260試合で122ゴールを挙げました。オランダ代表としても5試合プレーしています。

1999年にFIFAから20世紀最優秀監督に選ばれた名将。1970年代前半、FWが攻撃、DFが守備という役割を根底から覆し、ピッチ上の選手に特定のポジションが無く、全員攻撃・全員守備を徹底させる「トータル・フットボール」と呼ばれる戦術で、近代サッカーの礎を築きました。
この戦術の根幹となるのが「プレッシング」です。最前線と最終ラインの間隔を30m程度に保ち、ボールホルダーに対して数的優位を作ってプレスをかけます。高い位置でボールを奪い、相手の守備陣形が整う前に速攻を仕掛けることで、ゴールできる確率が高くなります。
プレッシングで最終ラインが高くなり、自陣のゴール前にスペースが生まれます。そこで「オフサイドトラップ」を採用します。中盤でインターセプトやクリアをするのではなく、敵陣からロングボールや縦パスが来る前に最終ラインを上げて相手FWをオフサイドポジションにします。
そしてこの戦術を象徴する「ポジションチェンジ」。CFが相手DFを惹きつけて中盤に下がったスペースをWGやMFが埋めます。また、中盤でボールを奪ったMFが最前線へ上がってフィニッシュに持ち込む間のスペースをFWやDFが埋めるなど、選手一人一人が連動しました。
この戦術は、ピッチにいる全員が水準以上のテクニックに加え、試合中に絶え間なく変わる流動的な情勢に迅速に対応するための判断力、集中力、戦術眼、運動量、利他性を高度に兼ね備えていなければならず、また、選手の間でこれらの能力に差があっても成り立ちません。それぞれの代役に特定の存在はなく、チーム全体でプレーのイメージを共有します。
イレブンを束ね、自身の戦術を具現化する中心となったのがキャプテンのクライフであり、その他の選手は彼の指示の下で動いていました。また、多くの選手の強烈な主張に難なく対応してチームプレーを徹底させる自身のたぐいまれな指導力も特筆すべき点です。
厳格であるため「将軍」、また、人前で話すのが少なく「スフィンクス」というあだ名があります。

30歳で現役を引退すると、高校時代からの夢だったスポーツ・インストラクターになります。そして難聴の子供たちのために数年間働きました。
1962年、アムステルダムのJOSから打診され、監督としてのキャリアを始めます。ここで3年間試行錯誤して戦術の下地を作り、1965年に監督ライセンスを取得しました。
そして古巣アヤックスに復帰します。シーズン途中だったこともあり前任者である英国人のビック・バッキンガムが採用し当時の主流だったW−Mと呼ばれる3−2−2−3システムを踏襲、リーグの下位に低迷して2部降格も危ぶまれていたチームを救いました。
翌シーズンより自らの戦術を浸透させ、チームを4度のリーグ、1度のカップ優勝に導きます。トップリーグでのキャリアが皆無だったにもかかわらず達成した偉業には、時を同じくして台頭したクライフの存在なくして語ることはできず、以降この愛弟子が自らが提唱する「トータル・フットボール」の体現者の中心として、共に栄光の歴史を歩むことになります。
チャンピオンズ杯では66/67シーズンから出場、ベジクタシュやリヴァプールを退けますが、準々決勝でD・プラハに敗れます。翌シーズンは1回戦でR・マドリーに敗れました。
68/69シーズンはニュルンベルク、フェネルバフチェを下します。準々決勝では第1戦でベンフィカに3失点しますが、第2戦のクライフのハットトリックにより合計スコアが並んだため第3戦が行われます。そしてここでもクライフの活躍で3−0と快勝しました。ミランとの決勝ではMFリヴェラのアシストなどでFWプラティにハットトリックを決められ、4失点で敗れました。
アウェーゴール2倍ルールが採用された70/71シーズンは、王者フェイエノールトが1回戦で敗れるのを横目に17ネントリ、バーゼル、セルティック、A・マドリーを撃破。決勝でパナシナイコスを下し、クラブ初のビッグイヤーを置き土産にアヤックスを退団します。
オランダで多くの実績を引っ提げ、以前と同様バッキンガム監督の後任としてバルセロナに就任します。最初の2年間は戦術を浸透させるまで時間を要し、国内リーグは3位、2位にとどまります。しかし73/74シーズンにクライフが加入し、アウェーのクラシコでは5−0とライバルを粉砕するなどクラブに14年ぶりのリーグタイトルをもたらします。翌シーズンにはニースケンスも入団し、スペインでも「トータル・フットボール」を実現させました。
この間に、1974年W杯予選をチェコ・スロヴァキア人のファドローネ監督の下で突破した後のオランダ代表に就任します。準備期間が短かったものの、アヤックス黄金時代の選手が多かったため「トータル・フットボール」を難なく機能させます。1次リーグはウルグアイとブルガリアに勝ち、スウェーデンとスコアレスドローで突破します。2次リーグでもアルゼンチンを4−0、東ドイツを2−0、ブラジルを2−0と下す素晴らしい内容で勝ち進みました。決勝ではベッケンバウアー率いる西ドイツと対戦。相手にボールを触れさせないままクライフが得たPKをニースケンスが決めて先制に成功したものの、クライフがフォクツの徹底マークに苦しみ仕事ができずチームも機能不全に陥り、G・ミュラーにゴールを献上、1−2で逆転負けしました。
しかし常に繰り返すポジションチェンジ、素早いボール回し、複数の選手によるプレッシング、的確なラインコントロールで対戦国を圧倒して失点もわずか1、しかもオウンゴールと完璧な試合内容を見せ、見事に組織化された「オレンジ・マシーン」は、世界に衝撃を与えました。
バルセロナで監督を続けますが、77/78シーズンの国内カップにとどまり、6年間過ごしたスペインを後にしました。その後2年間アメリカでサッカー普及に努めました。
1980年にケルンへ。K・アロフスやリトバルスキを擁していたものの、タイトルは1度の国内カップにとどまりました。また、就任当時在籍した奥寺は構想外になり早々に退団しました。
1984年からオランダ代表に戻り、2年間テクニカルディレクターを務めた後に監督に就任します。ミランの「オランダ・トリオ」、監督となったクライフが率いる「ドリーム・チーム」のR・クーマンを中心に1988年欧州選手権予選予選を圧倒的な強さで突破しました。
本大会は初戦でソ連に敗れたものの、続くイングランド戦ではファン・バステンのハットトリックにより勝利、アイルランド戦は1点差を逃げ切りました。準決勝では開催国西ドイツを退けてW杯での雪辱を果たすと、再戦となった決勝ソ連戦でもフリットのヘディングとファン・バステンのボレーで勝利をおさめ、母国オランダに初タイトルをもたらしました。
レヴァークーゼンでの1シーズンを経て、三度オランダ代表に就任。ベルカンプやF・デブールなどが台頭して選手層に厚みが増し、欧州選手権連覇の期待も高まります。迎えた本大会グループリーグではスコットランドとCISに1勝1分、最終節で宿敵ドイツを破りました。しかし準決勝で優勝するデンマークにPK戦の末敗れ、この試合を最後に監督業から退きました。オランダ代表では54試合で30勝14分け10敗の成績を残しました。
2005年3月3日に77歳で亡くなっています。

2016年6月15日:新規アップ

70/71アヤックス(CC・国内カップ優勝)
  クライフ  
カイザー ファン・ダイク
スバルト レインダース
  G・ミューレン  
シュルビア ニースケンス
バソヴィッチ フルスホフ
  ストイ  

73/74バルセロナ(国内リーグ優勝)
  クライフ  
ソティル レシャック
マルシアル ファン・カルロス
  アセンシ  
デ・ラ・クルス リフェ
コスタス トーレス
  モラ  

74オランダ代表(W杯準優勝)
  クライフ  
レンセンブリンク レップ
ファン・ハネヘム ニースケンス
  ヤンセン  
クロル シュルビア
ハーン レイスベルヘン
  ヨングブルート  

88オランダ代表(欧州選手権優勝)
ファン・バステン フリット
ミューレン ファネンブルグ
E・クーマン バウタース
ファン・ティヘレン ファン・アーレ
ライカールト R・クーマン
  ファン・ブロイケレン  

92オランダ代表(欧州選手権ベスト4)
ファン・バステン
ロイ フリット
ベルカンプ
ヴィチュヘ ライカールト
ヴァウテルス
F・デブール ファン・アーレ
R・クーマン
ファン・ブロイケレン