リオネル・メッシ(Lionel MESSI)
フルネーム リオネル・アンドレス・メッシ
国籍 アルゼンチン メッシ
出身地 サンタフェ
生年月日 1987・6・24
身長 169cm
体重 67kg
利き足
ポジション FW(RWG)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 2005・8・17
ハンガリー戦
代表背番号 10 19
W杯メンバー 06年 10年
14年 18年
ニックネーム ノミ レオ
個人タイトル 05FIFAワールドユース最優秀選手・得点王(6得点)
05,07〜13,15,16アルゼンチン年間最優秀選手
06〜08世界年間最優秀若手選手(ワールドサッカー誌)
06〜08FIFPro世界年間最優秀若手選手
07〜18FIFA/FIFProベストイレブン
08/09UEFA年間最優秀選手
08/09UEFA年間最優秀FW
08〜12,14〜16UEFAベストイレブン
09〜13,15リーガ・エスパニョーラ最優秀選手
09〜13,15,16リーガ・エスパニョーラ最優秀FW
09(9),10(8),11(12),12(14),15(10),19(12)
UEFAチャンピオンズ・リーグ得点王
09バロンドール(フランスフットボール誌)
09世界年間最優秀選手(FIFA)
09,11,12,15世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)
10,12,13,17〜19リーガ・エスパニョーラ得点王
10〜12,15FIFAバロンドール
10,12,13ヨーロッパ・ゴールデンシュー
10/11,14/15UEFA欧州最優秀選手
14FIFAワールドカップ最優秀選手
14FIFAワールドカップベストイレブン
14/15,15/16リーガ・エスパニョーラベストイレブン
チームタイトル 05,06,09〜11,13,15,16,18,19ラ・リーガ
05FIFAワールドユース
06,09,11,15UEFAチャンピオンズ・リーグ
08北京オリンピック金メダル
09,12,15〜19コパ・デル・レイ
09,11FIFAクラブワールドカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
04/05 バルセロナ(スペイン) 30
05/06 バルセロナ(スペイン) 30 17
06/07 バルセロナ(スペイン) 19 26 14
07/08 バルセロナ(スペイン) 19 27 10
08/09 バルセロナ(スペイン) 10 31 23
09/10 バルセロナ(スペイン) 10 35 34
10/11 バルセロナ(スペイン) 10 33 31
11/12 バルセロナ(スペイン) 10 37 50
12/13 バルセロナ(スペイン) 10 32 46
13/14 バルセロナ(スペイン) 10 31 28
14/15 バルセロナ(スペイン) 10 38 43
15/16 バルセロナ(スペイン) 10 33 26
16/17 バルセロナ(スペイン) 10 34 37
17/18 バルセロナ(スペイン) 10 36 34
18/19 バルセロナ(スペイン) 10 34 36
19/20 バルセロナ(スペイン) 10    
元々右からのカットインを得意とするWGですが、俊敏かつキレのあるドリブルやFKでゴールを量産し、2000年代後半から世界のトップに君臨するクラッキです。

4歳ごろからハビー・フットボールというミニサッカーで本格的に始め、8歳でニューウェルスと契約します。しかし幼少期から背が低く成長期でも伸びず、11歳でホルモン分泌の異常と診断を受けました。治療に1ヶ月10万円という大金がかかり、生活が苦しくなりました。当時からリーベルなどのオファーがありましたが、治療費の負担がなく合意には至りませんでした。
13歳のときに一家はスペインに渡りバルセロナの入団テストを受けて合格。当時のレシャック監督が数分で決めてしまうほどの技術を既に備えていたのです。保有権を持つニューウェルスとバルセロナの間での交渉が難航したため2年間は試合に出られず、トレーニングに専念します。また、スペインでの治療費はクラブが負担してくれました。毎晩ホルモン注射した結果、140cmくらいしかなかった身長が現在の169cmまで伸び、筋力も向上を遂げました。
04/05シーズン7節の2004年10月17日エスパニョール戦にて、17歳114日のクラブ最速でトップデビュー。第34節のアルバセテ戦での17歳10ヶ月7日の得点も当時のクラブ最速となりました(2008年にボージャンが更新)。05/06シーズンは右WGのレギュラーとしてリーグ連覇に貢献しました。翌シーズンは無冠でしたが、国内カップ準決勝ヘタフェ戦での5人抜きやクラシコでのハットトリックなど、印象深いプレーを随所に見せました。
08/09シーズンはロナウヂーニョの退団に伴い背番号10を託されます。そして23得点を挙げ、リーグ優勝、チャンピオンズ・リーグでも爆発してチーム3度目のビッグイヤー獲得に貢献、国内カップも合わせて3冠の原動力となります。C・ロナウドをかわして2009年のバロンドールおよびFIFA年間最優秀選手にアルゼンチン人選手として、初めて選出されました(アルゼンチン出身で1957年、59年のバロンドールに選ばれたディ・ステファノはスペインに帰化した後の受賞であり、当時は欧州国籍の選手のみ受賞資格がありました)。
09/10シーズンはクラブW杯で2試合連続で得点を決めタイトルを獲得、国内リーグでは1月16日セビージャ戦でクラブ最速のリーグ通算100得点を達成、3度のハットトリック(バレンシア戦とサラゴサ戦では2節連続)を決め、アウェーのクラシコでも得点を挙げるなど、34得点で得点王に輝きます。チャンピオンズ・リーグではインテルのマークに苦しみ連覇を逃しましたが、準々決勝アーセナル戦では1試合4ゴールなど11試合で8点を挙げました。
2010年のタイトルはリーグ優勝のみでしたが、イニエスタ、シャビ、スナイデルといった有力候補を抑え、新設されたFIFAバロンドールの初代受賞者となりました。
10/11シーズンは開幕ラシン戦での点を皮切りに、2度のハットトリック(11月20日アルメリア戦では8−0とリーガ最多得点差記録タイ)など2年連続で30点越えを達成しリーグを制覇。国内カップでもベティス戦でのハットトリックなど7試合7得点をマーク。チャンピオンズ・リーグでも13試合に出場し、R・マドリーとの準決勝1stレグでの2得点やマンチェスター・Uとの決勝など12得点と異次元の働きで3度目のビッグイヤーを手中にしました。
11/12シーズンもR・マドリーとの国内スーパー杯で2試合3得点、クラブW杯でもサントスから2得点を見せます。国内リーグではビジャレアルとの開幕戦から2得点1アシストを決めると、A・マドリー戦など6度のハットトリック、バレンシア戦など2度の1試合4得点など50得点を決め、76/77シーズンのD・ブカレストのゲオルゲスクによる47得点を塗り替え、欧州リーグのシーズン最多記録を更新します。チャンピオンズ・リーグでもレヴァークーゼンとの決勝トーナメント初戦2ndレグで大会の一試合最多記録を更新する5得点など14得点を決め、史上初の4シーズン連続得点王に輝きます。国内カップでは7試合3得点で優勝しました。
公式戦で72得点を決め、ゲルト・ミュラーが67得点で保持していた1シーズンの最多記録を39年ぶりに塗り替えます。また、クラブと代表での公式戦では92得点にのぼり、同じくミュラーの85得点の年間記録を40年ぶりに更新、4年連続でFIFAバロンドールに輝きました。
12/13シーズンも、本拠オサスナ戦での1試合4得点などリーガ記録となる19試合連続得点を打ち立て、R・マドリーから覇権を奪還します。チャンピオンズ・リーグでもミラン戦など11試合8得点と結果を残しますが、準決勝でバイエルンに零封されました。翌シーズンもオサスナ戦にクラシコと2試合連続含む3度のハットトリックを決め、国内カップやチャンピオンズ・リーグでも1試合1得点以上の結果を残したものの、タイトル獲得はなりませんでした。
14/15シーズンはクラシコこそ無得点でしたが、5度のハットトリックを達成。国内カップではビルバオとの決勝など5得点。チャンピオンズ・リーグは、APOEL戦でのハットトリックや準決勝バイエルン戦1stレグでの2ゴールなどで5度目の得点王になります。スアレスの加入で右に戻り、ネイマールとの「MSN」で圧巻のプレーを披露して2度目の3冠に輝きました。
15/16シーズンも2度のハットトリックやA・マドリーとの2戦など26得点、国内カップではバレンシア戦のハットトリックなど5得点で国内のタイトルを防衛しました。
16/17シーズンは開幕戦やアウェーのクラシコなど13度も1試合2得点を決めて4度目の得点王になります。国内カップでもアラベスとの決勝など5得点を挙げて優勝しました。チャンピオンズ・リーグでは2度のハットトリックに加え、R16ではPSGに4失点した後の2ndレグでPKを決めて大逆転勝利するなど、C・ロナウドに次ぐ11得点を挙げました。
翌シーズンもエスパニョール戦のハットトリック、エイバル戦の4発、クラシコからの5連発、レガネス戦のハットトリックまでの6連発、デポルティボ相手のハットトリックなど得点王のタイトルを防衛して2シーズンぶりのリーグ優勝。カップ戦でもセビージャとの決勝で1得点2アシストして国内2冠になりました。チャンピオンズ・リーグではユヴェントスやチェルシー相手に結果を残しますが、ローマとの準々決勝では結果が出ず敗退しました。
イニエスタの神戸への移籍に伴い、新主将になった18/19シーズンも3度のハットトリックなど、いずれもリーグ最多の36得点13アシストで連覇しました。チャンピオンズ・リーグもPSV戦のハットトリックやトッテナム、マンチェスター・U、リヴァプールとプレミア勢への2ゴールなど、唯一の2ケタ得点を挙げて4年ぶりの得点王になりました。

2005年Wユースでは7試合出場し、4試合連続得点などでアルゼンチンを5度目の優勝に導き、得点王とMVPに輝きました。同年8月17日ハンガリー戦でフル代表デビューしますが、2分後に報復行為をしたためいきなりレッドカードを受けました。
2006年W杯予選は3試合出場し、本大会でも18歳の若さでメンバーに入りました。その期待に応え、グループリーグのセルビア・M戦で後半30分に途中出場すると、43分に得意のドリブルから左足を振りぬいてネットを揺らしました。2007年コパ・アメリカでは決勝トーナメントに入って2得点を奪いましたが、決勝でブラジルに敗れました。
2008年の北京五輪では出場をめぐり苦心したもののクラブに認められ、リケルメ、アグエロとのトライアングルを形成、5試合で2得点を決めて連覇に貢献しました。
2010年W杯予選ではマラドーナ監督から10番を手渡され、チームで唯一全18試合に出て4得点を挙げるも本大会で沈黙。翌年のコパ・アメリカも無得点に終わりました。
2014年W杯予選に就任したサベーラ監督は、自身を最大限に生かすチームを作ります。14試合で10得点と抜群の成績は、中盤のマスチェラーノは無論、FWのディ・マリア、イグアイン、アグエロらのハードワーク抜きにはありえませんでした。過去最高とも言える環境で臨んだ本大会はボスニア・H戦で決勝点、イラン戦でもスコアレスドロー寸前での左足ミドル、ナイジェリア戦でのFK、スイス戦でのディ・マリアへのアシストと決定機を次々と生み出しますが、準々決勝ベルギー戦でのディ・マリアの離脱はダメージが大きく、以降得点機はありませんでした。
2015年コパ・アメリカは、パラグアイとの初戦でのPKによる1得点にとどまります。チームは決勝に進むものの地元チリにPK戦で敗れました。翌年のコパ・アメリカCではパナマ戦でハットトリックを決め、開催国アメリカ戦でも得点を挙げます。前回の再戦となったチリとの決勝ではスコアレスドローに終わりPK戦になります。相手ビダルの失敗を見て1番手として臨むものの失敗、ビリアも失敗し、残りが全員決めたチリの前に国際タイトルはなりませんでした。
2018年W杯予選は10試合に出場。ブラジルに3失点して敗れるなど敗退の危機に瀕したエクアドルとの最終戦でハットトリックを決め、母国に出場権をもたらします。4度目の本戦はナイジェリア戦で先制点を取ります。その後フランス戦でもメルカドとアグエロにアシストして追いすがりますが、相手FWムバッペの2発が致命的な結果となりました。
代表記録

余談
・2010年W杯でアルゼンチンを率いたマラドーナ監督より、「君は私のマラドーナ」と最大級の賛辞を受けています。「マラドーナ」とはアルゼンチンで「最高」を意味します。
2006年4月26日:新規アップ 2019年8月23日更新