ガイスカ・メンディエタ(Gaizka MENDIETA)
フルネーム ガイスカ・メンディエタ・ザヴァラ
国籍 スペイン
出身地 ビルバオ
生年月日 1974・3・27
身長 173cm
体重 79kg
利き足
ポジション MF(RMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1999・3・27
オーストリア戦
代表背番号 16
W杯メンバー 02年
ニックネーム  
個人タイトル 00,01UEFA最優秀MF
チームタイトル 98/99コパ・デル・レイ
03/04イングランドリーグ・カップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
91/92 カステジョン(2部) 16
92/93 バレンシア
93/94 バレンシア 20
94/95 バレンシア 13
95/96 バレンシア 34
96/97 バレンシア 6 30
97/98 バレンシア 6 30 10
98/99 バレンシア 6 37
99/00 バレンシア 6 33 13
00/01 バレンシア 6 31 10
01/02 ラツィオ(イタリア) 6 20
02/03 バルセロナ 17 33
03/04 ミドルスブラ(イングランド) 31
04/05 ミドルスブラ(イングランド) 14
05/06 ミドルスブラ(イングランド) 14 17
06/07 ミドルスブラ(イングランド) 14
豊富なスタミナとスピードを備えており、ドリブルからの正確なクロスにミドルシュートやFKといった得点力に定評があるWG。強靭な精神力の持ち主でキャプテンも務めます。

父親はR・マドリーなどでGKを務めたアンドレス・メンディエタで、自身も幼少からボールを蹴ってはいましたが、陸上競技の長距離ランナーとして活躍していました。本格的にサッカーに転向したのは15歳になってからでしたが、父親譲りの運動神経と身体能力で成長を遂げます。
92/93シーズンにカステジョンからバレンシアへ移籍。当時18歳の自身に対し約2千万円の値段が付き、6月13日のカディス戦でリーガデビューします。その後下部組織の試合に出場していましたが、95/96シーズンから右SBとして不動の地位を築きます。
97/98シーズン途中に就任したラニエリ監督により中盤でも起用され、攻撃力を発揮してC・ロペスやイリエとFW陣に次ぐ10ゴールをマーク。キャプテンに就任した98/99シーズンには国内カップ決勝でA・マドリー相手にスーパーゴールを挙げ、初タイトルを獲得しました。
99/00シーズンにクーペル監督が就任。カウンター戦術の急先鋒としてFW陣と連動し、チーム最多の13ゴールを挙げました。また、チャンピオンズ・リーグでは準決勝バルセロナ戦との両試合でゴールを挙げ、続く00/01シーズンも準決勝リーズ戦でダメ押しゴールを挙げると、決勝バイエルン戦でも先制点となるPKを決めるなど活躍。惜しくもそれぞれ敗れたものの、欧州で実績がなかったクラブを躍進させ、同時に自身も大きく成長を遂げたのです。
この活躍でR・マドリーやバルセロナなどが獲得に動きましたが、クラブ首脳が国内の移籍を認めなかったため、52億円の移籍金でイタリアのラツィオと5年契約を結びました。しかし、自身の獲得を望んだゾフ監督が解任されたり、イタリアのサッカーに適応できなかったりしたため、結局チェコ代表ポボルスキからレギュラーを奪うことができませんでした。
02/03シーズンにバルセロナへレンタルされますが、チームが不調の時期であり目立った活躍ができませんでした。その後ラツィオに復帰しても構想外だったため、イングランドに活躍の場を求めてミドルスブラへ移籍。ゼンデンや、ジュニーニョ・パウリスタらと共に攻撃を展開し、プレミア残留とクラブ初タイトルとなるリーグ杯制覇と復活を遂げました。
ところが04/05シーズンの10月23日ポーツマス戦でじん帯を損傷、その後も相次ぐケガで試合出場が困難な状況となり、06/07シーズン限りで現役を退いています。

1996年アトランタ五輪で2試合出場。25歳の誕生日となる1999年3月27日オーストリア戦でフル代表デビューします。翌年の欧州選手権では4試合に出場、決勝トーナメントのフランス戦でゴールを挙げましたが、敗れてベスト8にとどまりました。
2002年W杯予選は7試合3ゴールで出場権を獲得。本大会では3試合戦って南アフリカ戦でゴールを挙げるものの、韓国の前にベスト8で姿を消しました。
代表記録 35試合8得点
2007年12月8日:新規アップ 2012年9月16日更新