ヒューゴ・マイスル(Hugo MEISL)
フルネーム ヒューゴ・マイスル
国籍 オーストリア
出身地
生年月日 1881・11・16
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1912〜1914 1919〜1937 オーストリア代表
獲得タイトル 36ベルリンオリンピック銀メダル
ユダヤ人の裕福な家に生まれます。幼少時に首都ウイーンに移って商業学校を卒業し、銀行の事務員として働いていました。しかしサッカーへの情熱をたぎらせ、収入の良い銀行の仕事を捨ててまでオーストリアにおけるサッカーの技術を完成させ、必要とされていた基盤を作ることに専念。1920年から1930年代にはオーストリアサッカー協会の事務総長も務めました。

1930年代に世界を席巻したオーストリア代表史上最強の「ヴンダーチーム=驚異のチーム」を率いた監督。レフェリーとしても活躍しました。
また、ミトローパ杯(現欧州選手権)やチャンピオンズ・リーグの原型ともいえる中部ヨーロッパ杯の創始者の一人でもあり、FKオーストリアを欧州屈指の強豪に仕立て上げました。
友人でもあるイングランド人のジミー・ホーガンやハーバート・チャップマン、イタリア人のヴィットーリオ・ポッツォらの影響を受け、ショートパスでつなぐテクニカルなスタイルを取り入れ、2−3−5のいわゆる「W−M」フォーメーションを採用します。

ジミー・ホーガンを1912年にオーストリア代表に招き英国の技術を母国に持ち込み、自らもメンバーであるウイーンのクリケットクラブの1支部をサッカークラブ(ヴィーナー・アマチュア・スポーツクラブ)にしました。後のFKオーストリアとなったこのチームは、1933年と1936年のミトローパ杯を制しました。1912年12月22日に31歳の若さで代表監督として最初の采配を振るい、ジェノバでのイタリア戦で3−1の勝利を収めました。
2年弱指揮を執った後、5年間は第一次世界大戦の兵役に従事します。その間の代理監督と連絡を取り続け、終戦後の1919年に復帰しました。
戦後にオーストリア代表が黄金時代を迎えたためプロ化を推進。事務総長として再びホーガンと共に代表チームを作ります。彼の「じゅうたんの上にキープする」思想は、1930年代の自国や20年後の隣国ハンガリー代表(マジック・マジャール)に大きな影響を与えました。
その成果は、1931年4月12日の対チェコ・スロヴァキア戦の2−1の勝利から始まる14試合無敗(11勝3分け)の記録を作ることで表れます。「紙の男」と呼ばれた同国代表史上に残るファンタジスタ、シンデラーとグシュバイドルによる「夢のペア」と呼ばれる両者を軸にポゼッションサッカーを展開、特にドイツ戦では、アウェーで6−0、ホームで5−0と世界屈指の強豪相手に圧勝する素晴らしい結果となりました。また、5月16日にウィーンでのスコットランド戦でも5−0と大勝し、スコットランドに大陸で初めて土をつけました。
1932年12月7日、スタンフォード・ブリッジでのイングランド戦ではカウンターに苦しみ、無敗記録が3−4のスコアで止まりましたが、華やかさと屈強さを披露した好ゲームとなりました。
「ヴンダーチーム」は絶頂期から過ぎてはいたものの無敗は継続され、2回目の国際大会で勝利する高い確率があることを、W杯前日に真新しいトリノのスタジオ・ムッソリーニで行われた親善試合イタリア戦で4−2で勝利して示しました。
当時トーナメント制だった1934年W杯ではフランスとの初戦は延長になり、シンデラー、シャル、ビカンのゴールで3−2、続くボローニャでの準々決勝ハンガリー戦ではホルバートとツィシェクのゴールで2−1の勝利を収めました。サン・シーロでの盟友ポッツォ監督率いる準決勝イタリア戦では、ハンガリーとの試合で選手が疲弊し、豪雨によるピッチコンディションや運動量の豊富なヨハン・ホルヴァートの負傷離脱など悪条件が重なります。20本余りのシュートを相手GKコンビに浴びせたものの、グアイタのゴールで敗れ、3位決定戦のドイツ戦でも試合開始早々にゴールを献上するなど2−3で敗れ4位となりました。しかし1931年4月から1934年6月まで31試合中3敗しかせず、ゴール数は101という驚異的な記録を残しました。
2年後のベルリン五輪では、チームを主要国際サッカートーナメント初の決勝に導きましたが、1−2と再びイタリアにタイトル獲得を阻まれました。
1937年1月24日、パリでのフランス戦で2−1の勝利をおさめたのが最後の代表試合となり、数週間後に55歳の若さでこの世を去りました。
その後、オーストリア代表はヒトラー率いるナチス・ドイツに併合され消滅の憂き目に遭います。自身のそれまでの功績を無にするかのような出来事であり、自身と同じユダヤ人であるシンデラーは将来を悲観して自殺、35年の短い生涯を終えています。
この出来事により、「ヴンダーチーム」の時代は終わりを告げました。
※マレソフ(チェコ)
2009年1月8日:新規アップ 2012年7月9日更新

34オーストリア代表(W杯ベスト4)
  シンデラー  
シャル グシュバイドル
フォーグル ツィシェック
ガル ブラウン
ブルーム シラムサイズ
  スミシュティク  
  ヒデン