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フルネーム ラディスラオ・マズルケヴィッチ・イグレシアス
国籍 ウルグアイ
出身地 ピリアポリス
生年月日 1945・2・14
身長 179cm
体重 78kg
利き足
ポジション GK
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1965・5・16
チリ戦
代表背番号
W杯メンバー 66年 70年
74年
ニックネーム ※2
個人タイトル  
チームタイトル 65,66,67,68,69ウルグアイリーグ
65,66コパ・リベルタドーレス
66FIFAインターコンティネンタル・カップ
67CONMEBOLコパ・アメリカ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
65 ペニャロール    
66 ペニャロール    
67 ペニャロール    
68 ペニャロール    
69 ペニャロール    
70 ペニャロール    
71 ペニャロール    
72 アトレティコ・ミネイロ(ブラジル) 16
73 アトレティコ・ミネイロ(ブラジル) 16
74 アトレティコ・ミネイロ(ブラジル) 12
74/75 グラナダ(スペイン)
76 アメリカ・カリ(コロンビア)    
77 アメリカ・カリ(コロンビア)    
78 コブレロア(チリ)    
79 コブレロア(チリ)    
80 ペニャロール    
81 ペニャロール    
非常に小柄ですが、反応、跳躍力、敏捷性が傑出しており、的確な判断での飛び出しも持ち味とする1960年代のウルグアイ代表及びペニャロールの正守護神です。

地元のラシンでプレーを始め、17歳で強豪ペニャロールに引き抜かれます。当時はエクアドル代表A・スペンサーやチリ代表E・フィゲロアと攻守に名手が在籍しており、国内リーグ5連覇、リベルタドーレス2連覇と黄金期を築きます。1965年リベルタドーレスでベテランからポジションを奪うと、サントスやインデペンディエンテといった列強を下して優勝。翌1966年のインターコンティネンタル杯ではヨーロッパ王者R・マドリーを2試合で4−0と圧倒しました。
72シーズンからA・ミネイロでプレーし、ブラジル国内で評価を得てスペインへ。しかし2部降格に伴い1年で退団しました。その後南米を渡り歩いて81シーズンに古巣で引退しました。

1965年5月16日のチリ戦にて代表デビューを果たします。翌年のW杯予選に2試合、本戦では4試合出場。グループリーグでフランスのPKによる1点に抑えます。決勝トーナメント西ドイツ戦では味方が2人退場になって守備が手薄になり、4点を献上して敗れました。翌年のコパ・アメリカでは決勝でアルゼンチンを下しました。
1970年W杯予選は4試合、本大会は6試合プレー。3位決定戦で敗れて4位になります。続く1974年大会にも出場しますが、グループリーグで敗退しています。
代表記録 65試合
※1:ラディスラオ・マズルケヴィッチ(Ladislao MAZURKIEWICZ)
※2:マズルコ、エル・ポラコ(ポーランド人)
2012年10月5日:新規アップ