松本 育夫(Ikuo MATSUMOTO)
フルネーム 松本 育夫(マツモト イクオ)
国籍 日本  
出身地 栃木県宇都宮市
生年月日 1941・11・3
身長 170cm
体重 65kg
利き足
ポジション FW(RWG)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1966・12・10
インド戦 
代表背番号 12 16
W杯メンバー  
ニックネーム  
個人タイトル 66日本サッカーリーグベストイレブン
66日本サッカーリーグ新人王
チームタイトル 65〜68,70日本サッカーリーグ
65,67,69天皇杯
68メキシコオリンピック銅メダル
所属クラブおよび背番号 出場 得点
64 東洋工業(JSL1部)    
65 東洋工業(JSL1部) 14
66 東洋工業(JSL1部) 14
67 東洋工業(JSL1部)    
68 東洋工業(JSL1部)    
69 東洋工業(JSL1部)    
70 東洋工業(JSL1部) 14
71 東洋工業(JSL1部)    
スピードに乗ったドリブルでサイドを切り裂くWG。ダイレクトパスを駆使するなど球離れが良く、周囲を生かすことができます。実力に加え明るい性格で、ファンからの支持も厚い選手です。

栃木県宇都宮市生まれ。宇都宮大付属小に通うことになりますが、自宅から遠かったため学校から近い祖母の家に下宿しました。栃木師範など教員のサッカーが強く、付属小もサッカーが盛んだったため自身も早くから練習に明け暮れました。小学3年時に宇都宮高が高校選手権を制したことに影響を受け、5年時には主力として対抗試合を戦うなど活躍していました。
教育熱心な家庭だったこともあり、中学では2年間卓球など他のスポーツに取り組みます。3年時にサッカー部のメンバーが足りなくなったため加入します。そして県大会を制するだけでなく優秀選手にも選ばれ、サッカーに専念することになりました。
県内で勢力を伸ばしていた宇都宮工に進学し、1年からレギュラーに定着してFWとしてプレー。2年時に富山国体に出場し、準決勝でMF宮本輝擁する山陽高に敗れました。この時代はスパルタ的な指導を受けたものの一切弱音を吐かず、強靭な精神力を培いました。
早大に進学して間もなく日本代表に招集され、クラマーコーチの薫陶を受けてさらに実力を伸ばすと、FW釜本、MF森らと共に活躍し、1963年の天皇杯決勝では格上である日本リーグの日立(現柏)を破るジャイアントキリングを演じてタイトルを獲得しました。
卒業後に東洋工業(後のマツダ、現広島)に入社し、大学時代の同僚桑田、小城と共に活躍。1965年に開幕した日本リーグを4連覇、66シーズンには個人賞も手にしました。また、T・モスクワとの親善試合は1−1と、日本のクラブが欧州のクラブと引き分けという史上初の快挙を達成します。67シーズンは八幡製鉄との天皇杯決勝で2点目を決めました。
現役を引退するとマツダに残り、社員とサッカー部監督を兼任する多忙な日々を過ごします。1983年11月、人材担当として働いていた時に研修会で訪れた静岡県のつま恋研究所でガス爆発事故に巻き込まれて瀕死の重傷を負います。がれきの山から自力で脱出すると猛烈なリハビリを自らに課し、社会復帰に2年はかかると言われたところを8ヶ月で成し遂げました。
その後は京都や川崎F、鳥栖といったJリーグのクラブや長野県の地球環境高など、場所を選ばず日本サッカーの強化に努めています。

1960年の第2回アジアユースに出場。1964年東京五輪にはケガにより落選しますが、1966年12月10日アジア大会のインド戦で代表デビュー、4試合目に初ゴールを挙げました。
絶対的存在の杉山が左に君臨しており、右を渡辺正とポジションを争います。1968年東京五輪では大学の先輩川淵を退けて代表に入り4試合に出場。銅メダル獲得に貢献しました。
代表記録 11試合1得点

2016年1月8日:新規アップ

99川崎フロンターレ(J1昇格)
トゥット ティンガ
  伊藤彰  
久野智昭 長橋康弘
高田栄二 大塚真司
森川拓己 佐原秀樹
  中西哲生  
  浦上壮士  

06サガン鳥栖
 新居辰基 
 山口貴之 
山城純也濱田武
ユン・ジョンファン高橋義希
高地系治長谷川豊喜
キム・ユジン加藤秀典
 シュナイダ潤之介 

10サガン鳥栖
 豊田陽平 
 藤田直之 
山瀬幸宏早坂良太
下地奨衛藤裕
田中輝和丹羽竜平
ヨ・ソンヘ木谷公亮
 室拓哉