松田 直樹(Naoki MATSUDA)
フルネーム 松田 直樹(マツダ ナオキ)
国籍 日本 松田
出身地 群馬県桐生市
生年月日 1977・3・14
身長 183cm
体重 78kg
利き足
ポジション DF(CB)
FK PK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 2000・2・5
メキシコ戦
代表背番号
W杯メンバー 02年
ニックネーム マツ
個人タイトル 00,02Jリーグベストイレブン
11Jリーグ功労選手賞
チームタイトル 95,00,03,04ファーストステージ
95,03,04Jリーグ
00,04AFCアジアカップ
01ナビスコカップ
03セカンドステージ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
95 横浜マリノス 33
96 横浜マリノス 16
97 横浜マリノス 14 31
98 横浜マリノス 14 12
99 横浜F・マリノス 3 27
00 横浜F・マリノス 3 24
01 横浜F・マリノス 3 29
02 横浜F・マリノス 3 25
03 横浜F・マリノス 3 20
04 横浜F・マリノス 3 24
05 横浜F・マリノス 3 27
06 横浜F・マリノス 3 29
07 横浜F・マリノス 3
08 横浜F・マリノス 3 30
09 横浜F・マリノス 3 31
10 横浜F・マリノス 3 19
11 松本山雅(JFL) 3 15
183cmの高さと当たり負けしない抜群の強さを兼ね備えたフィジカルに加え、鋭い読みとカバーリング、巧みなラインコントロールで相手を封じます。また、高精度のフィードやセットプレーなど積極的な攻撃も持ち味で、ポテンシャルは世界基準に達しているといわれています。

小学1年でサッカーを始めます。当時はFWとしてプレーしていました。中学3年時に全国大会出場を果たした後、前橋育英に進学します。高校選手権には3年連続で出場しましたが、1年と3年では初戦で敗退し、2年時も大会途中で負傷するなど結果を残せませんでした。
1995年に横浜M(現横浜FM)に入団し、3月18日鹿島戦で開幕スタメンに名を連ねJリーグにデビューします。井原と小村がレギュラーのCBだったため当初は右SBとしてプレーし、いきなり1stステージ優勝を果たします。2ndステージの9月30日名古屋戦ではプロ初ゴールをマークするなど、高卒1年目にしてレギュラーに定着し、年間優勝に貢献しました。
98シーズンはに右ヒザを負傷しますが、00シーズンには井原からリベロのポジションを奪い守備陣の中心として活躍。2度目の1stステージを制してベストイレブンに選ばれました。01シーズンは降格争いに巻き込まれますが、ナビスコ杯で汚名返上しました。
02シーズンに中澤佑、那須、栗原と優秀なDFが加入、自身はキャプテンに就任します。無冠でしたがリーグ最少失点の原動力となり、2度目のベストイレブンを受賞しました。
03シーズンに就任した岡田監督の下、チームは2年連続年間優勝となりますが、不必要なカードをもらう場面が多かったり、ケガに悩まされたりと自身は低調に終わりました。
しかし06シーズンに2度目のキャプテンに就任すると、リーグで4ゴール、カップ戦で3ゴールと過去最多のゴール数を記録し復調をアピールします。翌シーズンは出場機会が限られ、キャリアで初の1ケタの出場に終わります。キャプテンマークも中澤に譲りました。
08シーズンはMF上野の退団で最古参となります。チーム事情によりボランチとして起用されましたが、持ち前のセンスでプレーの幅を広げ、2年連続で30試合以上出場しました。
しかし10シーズンはケガで19試合の出場に終わり、終了後に戦力外通告を受けます。クラブの「ミスター・F・マリノス」への処遇にサポーターが抗議する事態となりました。
自身は他のJクラブなどからオファーを受けていましたが、JFL松本山雅と契約。豊富な経験と高い個人能力でチームをJ1に導くべく戦っていた矢先、2011年8月2日の練習中に急性心筋梗塞で倒れ、2日後に34歳の若さで亡くなりました。突然の出来事に日本サッカー界は深い悲しみにくれましたが、チームは自身の遺志を継ぎ15シーズンにJ1に昇格しています。

1993年U−17世界選手権より招集され、4試合に出場してベスト8進出を果たすと、翌年のアジアユースにも全6試合で2ゴールを挙げ準優勝の原動力となりました。また、当時チームを率いていた小嶺監督に素質を見出されてDFにコンバートされました。
カタールでの1995年Wユースでもグループリーグを突破するなど4試合に出場します。この活躍が認められ、中田英と共に翌年のアトランタ五輪にメンバー入りします。田中誠、鈴木秀と3バックで全試合に出場し、ブラジル戦ではサヴィオ、ナイジェリア戦ではカヌといったアタッカーに仕事をさせない安定した守備を見せましたが、グループリーグ敗退となりました。
シドニー五輪予選は招集されなかったものの、2度目の本大会メンバーに選ばれ2試合に出場。オーバーエージの森岡や中澤佑とフラット3を形成しました。
フル代表デビューは2000年2月5日メキシコ戦で、アジア杯では3試合に出場し優勝。2001年コンフェデ杯から森岡、中田浩とのフラット3を組み、4試合に出場して準優勝となりました。
2002年W杯も全4試合フル出場し、ベスト16に進出しました。
代表記録 40試合1得点

2011年8月5日:新規アップ 2015年1月14日更新