フラン・マトシッチ(Frane MATOSIC) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | フラン・マトシッチ | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | クロアチア | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | スプリト | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1981・11・25 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 180cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 78kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | FK PK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ 代表 | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1938・5・8 ルーマニア戦 |
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代表背番号 | |||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 46クロアチアリーグ得点王 | ||||||||||||||||||||||||||||
48/49ユーゴスラヴィアリーグ得点王 | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 39,46,50,52,55ユーゴスラヴィアリーグ | ||||||||||||||||||||||||||||
52ヘルシンキオリンピック銀メダル | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
34/35 ハイデュク・スプリト | 15 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
35/36 ハイデュク・スプリト | |||||||||||||||||||||||||||||
36/37 ハイデュク・スプリト | 18 | 12 | |||||||||||||||||||||||||||
37/38 ハイデュク・スプリト | 12 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
38/39 BSKベオグラード | 14 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
39/40 ハイデュク・スプリト | 8 | 13 | |||||||||||||||||||||||||||
42/43 ボローニャ(イタリア) | 28 | 13 | |||||||||||||||||||||||||||
45 ハイデュク・スプリト | |||||||||||||||||||||||||||||
46/47 ハイデュク・スプリト | 23 | 14 | |||||||||||||||||||||||||||
47/48 ハイデュク・スプリト | 18 | 15 | |||||||||||||||||||||||||||
48/49 ハイデュク・スプリト | 18 | 17 | |||||||||||||||||||||||||||
50 ハイデュク・スプリト | 18 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
51 ハイデュク・スプリト | 19 | 13 | |||||||||||||||||||||||||||
52 ハイデュク・スプリト | 15 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
52/53 ハイデュク・スプリト | 19 | 11 | |||||||||||||||||||||||||||
53/54 ハイデュク・スプリト | 20 | 11 | |||||||||||||||||||||||||||
54/55 ハイデュク・スプリト | 21 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
55/56 ハイデュク・スプリト | 13 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
クラブ歴代最多の211得点を挙げたH・スプリトのレジェンド。枠に飛ばす技術、位置取り、こぼれ球への反応が秀逸です。また、強靭な精神力もセールスポイントです。 ユーゴスラヴィア王国のスプリト生まれ。ルカ・カリテルナで腕を磨き、H・スプリトで16歳から選手生活を始めます。S・サラエボとのデビュー戦でハットトリックを決めるなど14−0の大勝に貢献、以降高い決定力を見せつけ、DFの兄ヨゾと共にチームをけん引しました。 38/39シーズンは兵役のため陸軍チームのベオグラードに移り、ヴヤディノヴィッチやマルヤノヴィッチといったFWとのプレーでリーグ優勝を達成しました。復帰したH・スプリトでも得点数が出場試合数を上回る破壊力を披露しますが、第二次大戦でプレーを中断しました。 42/43シーズンにボローニャへ入団、レグッツォーニやプリチェッリといったFWとのレギュラー争いに加わり、チーム最多の13得点を挙げました。 その後戦争で再び休止を余儀なくされイタリアを後にし、H・スプリトに復帰します。ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国となった母国リーグで再び爆発力を披露、特に後進のFWヴカスの成長を促進させました。また、時の権力者ティトーからのパルチザンへの移籍要請を拒んでH・スプリトでプレーし続けたことも、逸話として語り継がれることになりました。 非公式なものも含め739試合729得点という不滅の記録を残し、55/56シーズンに引退。その後は監督としてH・スプリトやチュニジア代表で指揮を執っています。 1938年に代表デビュー。ヘルシンキ五輪では無得点でしたが、チームは銀メダルを獲得しました。W杯予選は1954年大会の1試合プレーしています。 代表記録(ユーゴスラヴィア) 16試合5得点 2019年2月9日:新規アップ |