ファン・マヌエル・マタ(Juan Manuel MATA)
フルネーム ファン・マヌエル・マタ・ガルシア
国籍 スペイン
出身地 ブルゴス
生年月日 1988・4・28
身長 170cm
体重 61kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 2009・3・28
トルコ戦
代表背番号 13 22
W杯メンバー 10年 14年
ニックネーム  
個人タイトル 12/13プレミアリーグベストイレブン(PFA)
チームタイトル 06UEFAU−19欧州選手権
07/08コパ・デル・レイ
10FIFAワールドカップ
11UEFAU−21欧州選手権
11/12FAカップ
11/12UEFAチャンピオンズ・リーグ
12UEFA欧州選手権
12/13,16/17UEFAヨーロッパリーグ
16/17イングランドリーグ・カップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
06/07 レアル・マドリー・カスティージャ(2部) 28 39
07/08 バレンシア 16 24
08/09 バレンシア 16 37 11
09/10 バレンシア 10 35
10/11 バレンシア 10 33
11/12 チェルシー(イングランド) 10 34
12/13 チェルシー(イングランド) 10 35 12
13/14 チェルシー(イングランド) 10 13
13/14 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 8 15
14/15 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 8 33
15/16 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 8 38
16/17 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 8 25
17/18 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 8 28
18/19 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 8 22
19/20 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 8    
一瞬のスピードで相手のマークから外れ、自らも鋭いドリブルでエリアに攻めるアタッカー。軽量ですが、力強さを秘めた左足で局面を打開します。

少年時代は父親も在籍したオビエドで成長、3年間在籍した後15歳でR・マドリーの下部組織に入ります。ユースレベルで結果を出した後、06/07シーズンにカスティージャでプロデビュー。9得点しますが、選手層が厚いトップへの昇格はなりませんでした。
その後バレンシアへ完全移籍します。当初はシルバの存在もありキケ・フローレス監督からは重用されませんでしたが、途中に就任したR・クーマン監督から信頼され先発出場も増加、24試合5得点とまずまずの結果を出しました。クラブは優勝争いから脱落し、アルベルダ、アングーロ、カニサレスといったレギュラーが監督と対立して雰囲気が悪かっただけに、自身の成長はクラブにとって唯一の明るい話題であるといっても過言ではありませんでした。国内カップでは8試合で4得点、特に2008年3月20日準決勝バルセロナ戦で2得点、決勝ヘタフェ戦でも先制点を挙げて9年ぶりのタイトル獲得に大きく貢献し、クラブの年間最優秀若手選手に選ばれました。
08/09シーズンは11点で離脱したシルバの穴を埋め、前年10位のチームを6位に上げました。翌シーズンもリーグで9点、チャンピオンズ・リーグで4点を挙げました。
10/11シーズンはシルバとビジャが退団し、クラブの命運を握る存在となります。チャンピオンズ・リーグではグループリーグのPKによる1点にとどまりました。1月24日に新たに2014年夏までの契約を結びますが、通算179試合43得点でメスタージャを後にしました。
V・ボアス監督の要請に応え、F・トーレス、ロメウに続くクラブ3人目のスペイン人としてチェルシーに入団します。8月27日ノーリッジ戦でデビューして得点を挙げ、6得点13アシストをマークします。FA杯でも決勝でアシストして優勝に貢献しました。チャンピオンズ・リーグでも11試合戦い、ナポリ戦など2点を取って決勝に進むと、終了間際にCKでドログバの同点弾を生みました。PK戦では1人目のキッカーとしてミスしましたが、守護神チェフのビッグセーブに救われクラブ初のビッグイヤーを獲得。これらの活躍によってクラブの年間MVPに選ばれました。
翌シーズンもアーセナル戦でトーレスへのアシストに加え自らも決勝点を取り、トッテナム戦でも2得点1アシストとロンドンでの対決を制する原動力となりました。また、マンチェスター・Uとのアウェー戦でも決勝点を挙げました。アシストも同僚のアザールと競い合い、リーグ最多の17を見せてベストイレブンにも選ばれました。チャンピオンズ・リーグではノアシェラン戦でしか結果を残せずヨーロッパリーグに回ったものの、ベンフィカとの決勝ではカウンターからトーレスを、CKでイヴァノヴィッチをそれぞれアシストして優勝に貢献しました。
各大会でフル稼働しましたが、13/14シーズンに復帰したモウリーニョ監督の構想外となり、60億を超える金額でマンチェスター・Uへ移ります。そしてカーディフ戦から3連続アシストやニューカッスルとノーリッジ相手の1試合2得点とまずまずの成績を残しました。
2年目はリヴァプールとの2戦で3得点1アシストし、マンチェスター・ダービーでも得点を挙げて2年ぶりのチャンピオンズ・リーグ出場権を獲りました。3年目も6得点5アシストとトップ下の役割を果たしますが、チャンピオンズ・リーグ出場権を逸しました。4年目は王者レスターからとの両試合で3得点を挙げ、リーグ杯とヨーロッパリーグでも2点ずつ決めて優勝しました。
5年目はボーンマスとWBA相手に2試合連続、終盤のワトフォード戦で決勝アシストしました。また、アウェーのレスター戦では1試合2得点をマークしています。

ポーランドで開催された2006年のU−19欧州選手権では4試合5得点で優勝。翌年のU−20W杯では4試合2得点で準決勝に進みますが、チェコにPKで敗れました。
2009年3月28日トルコ戦でフル代表デビューし、コンフェデ杯で2試合出場。2010年W杯予選で4試合、本戦でも1試合に出て初優勝メンバーに名を連ねました。
2011年のU−21欧州選手権では主将としてチームをけん引。5試合に出てウクライナ戦で2得点を決めるなど優勝に貢献し、MVPをはじめ多くの個人賞を受賞しました。
2012年欧州選手権予選は3試合だけでしたが、チェコ戦など2得点。本大会は決勝の終了間際に初出場し、F・トーレスからのアシストでダメ押し点を取って優勝しました。
ロンドン五輪でもアルバやJ・マルティネスとエントリーされ優勝候補の筆頭でしたが、日本に出鼻をくじかれるなど、チーム全体で無得点と散々な結果に終わりました。
2013年コンフェデ杯はサブ組の位置づけであり、タヒチ戦で1得点2アシストした以外はベンチスタートが多く、先発したブラジルとの決勝でもノーインパクトに終わりました。
2014年W杯予選もクラブと同様定位置をつかめませんでしたが、本大会ではグループリーグ敗退が決まった後のオーストラリア戦で3点目を挙げました。
2016年欧州選手権予選は3試合にとどまりました。
代表記録

2011年11月17日:新規アップ 2019年9月27日更新