フルネーム ハビエル・アレハンドロ・マスチェラーノ
国籍 アルゼンチン マスチェラーノ
出身地 サンタフェ
生年月日 1984・6・8
身長 178cm
体重 77kg
利き足
ポジション MF(DMF)
FK PK PK
キャプテン経験 代表
代表デビュー 2003・7・16
ウルグアイ戦
代表背番号 8 14
W杯メンバー 06年 10年
14年 18年
ニックネーム マスチェ
個人タイトル  
チームタイトル 03,04アルゼンチン後期リーグ
03コパ・スダメリカーナ
04CONMEBOLコパ・アメリカ
04アテネ,08北京オリンピック金メダル
05ブラジル全国選手権
11,13,15,16リーガ・エスパニョーラ
10/11,14/15UEFAチャンピオンズ・リーグ
11FIFAクラブワールドカップ
11/12,14/15〜16/17コパ・デル・レイ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
02/03 リーベル・プレート
03/04 リーベル・プレート 5 21
04/05 リーベル・プレート 5 25
05 コリンチャンス(ブラジル) 3
06 コリンチャンス(ブラジル) 3 10
06/07 ウェストハム(イングランド) 16
06/07 リヴァプール(イングランド) 20
07/08 リヴァプール(イングランド) 20 25
08/09 リヴァプール(イングランド) 20 27
09/10 リヴァプール(イングランド) 20 34
10/11 バルセロナ(スペイン) 14 27
11/12 バルセロナ(スペイン) 14 31
12/13 バルセロナ(スペイン) 14 25
13/14 バルセロナ(スペイン) 14 28
14/15 バルセロナ(スペイン) 14 28
15/16 バルセロナ(スペイン) 14 32
16/17 バルセロナ(スペイン) 14 25
17/18 バルセロナ(スペイン) 14
18 河北幸福(中国) 14 26
19 河北幸福(中国) 14    
執拗なマークやタックルでのボール奪取、危険なスペースのカバーやセカンドボールへの反応で相手の攻撃をしのぎ、素早く攻撃につなげるボランチです。

ガジェゴ、メルト、アストラーダ、アルメイダといった面々を輩出したリーベルの下部組織出身。2003年にトップへ上がり、フル代表にデビューした後の03/04前期リーグ8月3日ヌエバ戦でリーグデビューし、10試合に出て03/04後期制覇に貢献します。リベルタドーレスでは準決勝にて宿敵ボカにPK戦で敗れ、翌シーズンも準決勝でサンパウロに敗れました。
2005年7月に欧州移籍が取りざたされる中ブラジルのコリンチャンスへ加入。骨折で長期の戦線離脱を強いられましたが、アテネ五輪終了後に同僚テベスと共にイングランドのウェストハムへ加入、2006年9月17日ニューカッスル戦でプレミアデビューしました。
しかしプレミアのサッカーやチーム戦術にフィット出来ず、欧州カップを含む出場した全7試合が黒星という不運を経験し、シーズン途中にリヴァプールへ移籍します。
ベニテス監督からの評価も高く、X・アロンソと中盤を形成。チャンピオンズ・リーグでも準決勝チェルシー戦や決勝ミラン戦に出場しました。2008年2月29日に4年契約の完全移籍になり、3月のレディング戦でキャリア初ゴールをマークしますが、続くマンチェスター・U戦で退場処分を受けるなど、25試合出場の中で紆余曲折を経験しました。
翌シーズンはチャンピオンズ・リーグで8試合出場し、R・マドリー戦ではアシストを決めて4−0の大勝を収めますが、09/10シーズンはリヨンとフィオレンティーナの前にまさかのグループリーグ敗退となります。しかしヨーロッパ・リーグのウルジチェニ戦でシーズン唯一のゴールを挙げました。リーグでは低迷しましたが、キャリア最多の34試合に出場しました。
10/11シーズン、アーセナルとの開幕戦でアシストを決めた後バルセロナへ加入し、9月11日エルクレス戦でリーガデビュー。トゥーレ・Yの穴埋め役として中盤センターでの活躍が期待されますが、生え抜きのブスケが台頭にプジョールのケガもありCBになります。12試合出場したチャンピオンズ・リーグも含めて2冠を達成しました。14/15シーズンは開幕2戦目でレッド、イエローも8枚と華麗なMSNの背後で泥臭く戦い、チーム2度目の三冠に貢献しました。
16/17シーズンのオサスナ戦では、在籍7年目にしてリーグ初ゴールをPKで決めました。翌シーズン途中にペジェグリーニ監督率いる河北幸福へ移籍しています。

FWテベスやマキシ・ロペスらと共に2001年U−17世界選手権と2003年Wユースに出場。双方4強となり、後者では準々決勝アメリカ戦で後半追加タイムで同点ゴールを決めました。2003年7月16日ウルグアイとのフレンドリーマッチでフル代表デビューします。
クラブでの試合出場経験がないという異例の出来事となりましたが、ビエルサ監督の期待に応え翌年のコパ・アメリカで準優勝になります。アテネ五輪では6試合に出場、大会通じて無失点で終え、母国初にして宿敵ブラジルがなしえていない金メダル獲得を果たします。この活躍でエル・パイース紙による南米年間最優秀選手投票でテベスに次ぐ56票を集めました。
五輪終了後にビエルサ監督が突然辞任しますが、後任のペケルマン監督の元でもケガを除けば主力として起用されます。2006年W杯予選は7試合戦い出場権獲得に貢献、本大会は全5試合にフル出場しました。2007年コパ・アメリカでは決勝でブラジルに敗れました。
2008年の北京五輪メンバーにオーバーエージ枠で入り、全6試合に出場。ガゴとフル代表レベルのボランチコンビを組み、連覇を達成しました。
2010年W杯予選ではマラドーナ監督からキャプテンに指名されます。そして16試合に出場し、本戦もギリシャ戦以外全試合に出ますが、準々決勝でドイツに完敗しました。
2014年W杯予選はアンカーとして12試合に出場。本大会でも7試合戦い、2列目以前の面々と連動したハードワークでメッシを活かしますが、決勝でドイツに屈しました。
2011年コパ・アメリカでは4試合に出場、優勝するウルグアイ戦で退場し、チームもPK戦で敗れました。2015年も6試合に出場するものの地元チリに敗れました。翌年も5試合戦い、チリとのPK戦ではメッシの失敗に動揺せず成功させるも及びませんでした。
2018年W杯予選は15試合に出場、パラグアイとブラジルに連敗して敗退の危機に瀕しますが、クラブの同僚メッシのハットトリックによりエクアドルに逆転勝ちしました。4度目となる本大会でも4試合にスタメン出場しました。
代表記録

余談
・マラドーナ監督からの信頼は「私のチームはマスチェラーノとその他10人だ」という言葉に集約され、W杯でのアルゼンチン代表歴代最年少のキャプテンになりました。
※:ハビエル・マスチェラーノ(Javier MASCHERANO)
2008年7月29日:新規アップ 2019年8月23日更新