チェーザレ・マルディーニ(Cesare MALDINI)
フルネーム チェーザレ・マルディーニ
国籍 イタリア
出身地 トリエステ
生年月日 1932・2・5
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1974〜76 フォッジャ
1976〜77 テルナーナ
1978〜80 パルマ
1986〜96 U−21イタリア代表
1996〜98 イタリア代表
2001〜02 パラグアイ代表
獲得タイトル 92,94,96UEFAU−21欧州選手権
現役時代はDFとしてセリエAで活躍。ミランでは412試合に出場し、クラブ史上数少ない主将にも就任。62/63シーズンはMFリヴェラなどと共にイタリア勢で初めてチャンピオンズ杯を制し、リーグ優勝も4回達成するなどパンディエラとして一時代を築きました。
代表では25試合プレーし、1962年W杯にも出場。1967年にトリノで現役を終えています。

08/09シーズンを最後に現役を引退したDFパオロの父親で、1998年には同じチームで、2002年ではチームは違いましたが親子で2大会連続のW杯出場を果たしました。
伝統の「カテナチオ」を踏襲した守備重視のサッカーを展開します。

フォッジャからキャリアを始めますが、比較的短期間でプロビンチャを渡り歩き、主に若手育成に注力していました。そして1986年より代表に携わることになります。
ベアルツォット監督のアシスタントコーチに就任、1982年W杯で優勝し、1986年大会も経験します。その後U−21監督に就任し、10年間にわたって数多くの若手を発掘します。1990年のU−21欧州選手権はGKペルッツィ、DFコスタクルタ、FWシニョーリらを擁し準決勝にコマを進めますが、サヴィチェヴィッチ、ミヤトヴィッチ、ボバン、シュケル擁する分裂前の旧ユーゴに敗れました。しかし1992年大会では2大会連続出場のFWカジラギを中心に優勝します。1994年大会ではGKトルド、DFカンナヴァーロ、パヌッチ、FWヴィエリ、インザーギなど攻守のバランスに優れ、準決勝でMFジダン擁するフランスを、決勝で「黄金世代」のポルトガルを破りました。1996年もDFネスタやMFトッティ、フィオーレ、帰化したカモラネージらを率いて3連覇の偉業を達成すると共に、多くの若手をフル代表に送り込んで強化に大きく貢献しました。
そして1998年W杯予選が始まりますが、代表の戦いぶりに非難が殺到し、サッキ監督がミランに就任するため後任として1996年12月に就任します。いきなりイングランドとの大一番に臨みますが、1−0で勝利します。しかしポーランドやグルジアに引き分けたため思うように勝ち点を積み上げられず、プレーオフに回りました。1stレグのアウェーを引き分けた後、続くホームではカジラギのゴールにより勝利、辛くも本大会出場権を手にしました。
台頭したデル・ピエロをレギュラーに据え、エースだったR・バッジョを控えに回す起用も大きな議論の的となりましたが、本大会では両者を召集します。デル・ピエロは大会前のケガで機能せず、R・バッジョが2ゴールを挙げる活躍を見せて復活をアピールします。しかし準々決勝でフランスにPKで敗れ辞任しました。その後は古巣ミランでスカウトを務めました。
2001年、既に翌年のW杯本大会を決めたパラグアイ代表に就任。世界有数のGKチラベル、リーベルで活躍するC・アジャラ、後にインテルでプレーするガマーラ、ボランチのパレデスなど優秀な守備陣に加え、新星サンタクルスなど好タレントを擁し、大会最高齢監督として本大会に臨みます。大黒柱のGKチラベルが初戦で出場停止だったため2点差を守れずドローに終わり、スペインには惨敗を喫しますが、スロヴェニア戦で勝利しグループリーグを突破します。決勝トーナメント初戦ドイツ戦では試合終了間際に決勝ゴールを許し、ベスト16に終わりました。
監督業を退いた後は解説者として活躍し、2016年4月3日に84歳で亡くなりました。

2009年6月22日:新規アップ 2016年4月6日更新

98イタリア代表(W杯ベスト8)
  ヴィエリ  
R・バッジョ モリエロ
P・マルディーニ ペッソット
D・バッジョ ディ・ビアッジョ
カンナヴァーロ ベルゴミ
  コスタクルタ  
  パリュウカ  

02パラグアイ代表(W杯ベスト16)
J・カルドーソ サンタクルス
  ボネ  
カニサ アルセ
ストルウェイ アクーニャ
ガマーラ J・C・カセレス
  C・アジャラ  
  チラベル