槙野 智章(Tomoaki MAKINO)
フルネーム 槙野 智章(マキノ トモアキ)
国籍 日本  
出身地 広島県広島市
生年月日 1987・5・11
身長 182cm
体重 77kg
利き足
ポジション DF(CB)
FK PK FK
キャプテン経験 代表
代表デビュー 2010・1・6
イエメン戦
代表背番号 20
W杯メンバー 18年
ニックネーム マキ
個人タイトル 10,15,16Jリーグベストイレブン
10Jリーグフェアプレー個人賞
チームタイトル 15ファーストステージ
16セカンドステージ
16ルヴァンカップ
17AFCチャンピオンズ・リーグ
18天皇杯
所属クラブおよび背番号 出場 得点
06 サンフレッチェ広島 28
07 サンフレッチェ広島 28 18
08 サンフレッチェ広島(J2) 28 41
09 サンフレッチェ広島 5 33
10 サンフレッチェ広島 5 34
10/11 1.FCケルン(ドイツ) 43
11/12 1.FCケルン(ドイツ) 18
12 浦和レッズ 20 33
13 浦和レッズ 5 34
14 浦和レッズ 5 31
15 浦和レッズ 5 33
16 浦和レッズ 5 29
17 浦和レッズ 5 32
18 浦和レッズ 5 32
19 浦和レッズ 5    
人への強さと高い跳躍力でCBとして活躍しますが、機動力とスタミナを武器にSBにもなります。また、セットプレーでのヘッドや長い距離のFKなど水準以上の攻撃力も兼備します。
ピッチ内外で周囲を盛りたて、鼓舞するメンタル面も特長です。

父や二人の兄の影響を受け、小学1年から井口明神FCというクラブでサッカーを始めます。当時はFWとしてプレーし、広島のジュニアユースからオファーを受けて入団しました。
ここでは森重と2トップを組みますが、3年時にチームの層が薄かったこともありCBにコンバートされます。その後昇格したユースでは、1994年の1stステージ制覇を経験した森山監督の下、MF柏木らと共に成長します。2年時からレギュラーとして活躍し、クラブユース選手権や高円宮杯といったタイトル獲得に貢献し、ユース代表にも召集されました。
2006年12月2日、シーズン最終節清水戦でJデビュー。翌シーズンからカップ戦で多くの出場機会を得ると、リーグ最終節G大阪戦ではヘッドで初得点を記録します。チームは入れ替え戦で敗れて降格となりますが残留を表明、41試合で7得点を挙げ、1年でのJ1復帰に貢献。翌09シーズンも33試合で8得点と驚異的な攻撃力でチームをACL出場圏内に導き、10シーズンも33試合でチーム3位タイの4得点、同3位の4アシストと結果を残しました。また、ナビスコ杯決勝でも得点を挙げるも敗れ、悲願の初タイトルはなりませんでした。しかしJ2降格とJ1復帰を経験し、得点した際のさまざまなパフォーマンスなどでチームを盛り上げました。
そして、奥寺以来クラブ2人目の日本人としてケルンに入団します。2011年1月29日ザンクトパウリ戦でブンデスリーガにデビューしますが、以降は出場機会に恵まれませんでした。
12シーズンに浦和に加入します。ペトロヴィッチ監督、柏木、森脇、西川と旧知の面々と共にチームを上位に導きます。16シーズンはルヴァン杯と2ndステージを制しますが、鹿島とのチャンピオンシップ決勝2ndレグでは自身のファールでPKを献上して敗れました。
17シーズンは優勝する川崎Fにゴールを決めるも4失点し、札幌戦ではレッドを受けるなど精彩を欠き7位に終わりました。ACLでは14試合戦ってクラブ10年ぶりの優勝を達成。その後のクラブW杯では初戦でイエローを受けて敗れ、5位決定戦を制しました。
翌シーズンはFC東京都清水相手に2度の同点弾と勝負強さを見せました。天皇杯では4試合に出場、鳥栖戦でダメ押し点を挙げて優勝に貢献しました。

アジアユースでは出場停止を除く全試合に先発し、2007年Wユース出場権獲得に貢献。迎えた本大会ではグループリーグ突破を果たしました。決勝トーナメント初戦のチェコ戦で先制点を挙げるものの同点に持ち込まれ、PK戦で敗れました。
2010年1月6日イエメン戦でフル代表デビューし、同年のW杯はバックアップメンバーになりました。その後東アジア杯は2013年と2015年に計5試合出場して実績を作りました。
2014年W杯予選は1試合に終わりましたが、2018年W杯予選ではハリルホジッチ監督の下で定着して4試合に出場。ブラジルやウクライナといった強化試合では点を取って本大会に選ばれますが、昌子の台頭で控えとなり1試合の出場に終わりました。
代表記録

2015年6月16日:新規アップ 2018年12月27日更新