前園 真聖(Masakiyo MAEZONO) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 前園 真聖(マエゾノ マサキヨ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | ※ | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1973・10・29 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 170cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 66kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(OMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | FK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | 代表 | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1994・5・22 オーストラリア戦 |
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代表背番号 | 7 8 11 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ゾノ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 96Jリーグベストイレブン | ||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 93天皇杯 | ||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
93 横浜フリューゲルス | 24 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
94 横浜フリューゲルス | 38 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
95 横浜フリューゲルス | 40 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
96 横浜フリューゲルス | 26 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
97 ヴェルディ川崎 7 | 28 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
98 ヴェルディ川崎 7 | 22 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
98 サントス(ブラジル) | |||||||||||||||||||||||||||||
99 ゴイアス(ブラジル) | |||||||||||||||||||||||||||||
00 湘南ベルマーレ(J2) | 38 | 11 | |||||||||||||||||||||||||||
01 東京ヴェルディ 11 | 13 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
02 東京ヴェルディ 11 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
03 安養LG(韓国) | 16 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
04 仁川(韓国) | 13 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
重心の低いキレのある突破で、1.5列目からゴール前をプレーエリアとする日本有数のドリブラー。両足で蹴れるプレースキックも特徴のひとつです。 数多くのCM出演経験があり、メディアにも露出が多い選手です。 鹿児島県薩摩郡(現薩摩河内市)出身。4歳年上の兄の影響を受け、小学2年から「東郷小スポーツ少年団」に入ってサッカーを始めます。 元来右利きにもかかわらず感覚的に左足のほうが蹴りやすく、1982年W杯でのマラドーナのプレーに衝撃を受けたこともあってドリブルの練習に明け暮れていました。 中学に進学すると、1年次はサッカー部が存在していなかったため陸上部に身を置き、サッカー同好会で練習していました。2年次にサッカー部が誕生して県大会でベスト8に進出します。自身は県選抜チームに選ばれ、九州地区大会で優勝しました。 この活躍で強豪鹿児島実業に進学します。2年時はインターハイでベスト8、国体はベスト4、高校選手権は準優勝といずれもあと一歩タイトルに手が届きませんでした。しかしこれらの活躍が認められ、高校選抜としてスイスやドイツへの遠征に参加することができました。3年時の高校選手権清水商戦で2ゴールを挙げましたが、準々決勝で帝京に敗れました。 加茂監督の説得に応じ、地元鹿児島を特別活動地域とする横浜Fに入団。2ヶ月アルゼンチンへ留学したあと1993年6月5日V川崎(現東京V)戦でJリーグにデビューし、ルーキーながらレギュラーの座をほぼ手中にします。翌94シーズンはスタメンに定着して8ゴールを挙げました。この活躍でU−21に召集され、さらにファルカン監督のフル代表にも召集されます。 しかしアトランタ五輪へ向けU−21に専念し、チームに合流すると主将としてチームを牽引。最終予選では強敵のオマーンやサウジアラビア相手にそれぞれ2ゴール決め、日本にとって釜本らのチーム以来、28年ぶりの五輪本大会出場に貢献しました。 川口、中田英、松田、城などそうそうたるメンバーがそろう中、1996年の五輪本大会でも存在感は際立っていました。得失点差により一次リーグ敗退になりましたが、ブラジルに勝利した「マイアミの奇跡」、ハンガリー戦での2ゴールと印象を残しました。 同年にセビージャからオファーが来ますが、所属する横浜Fとの間で交渉が進まず移籍は実現せず、自身と横浜Fとの交渉も難航しました。その翌年には推定3億5千万円の移籍金でV川崎へ移りますが、コンディション調整に苦しみ、思うような結果を残せませんでした。 その後2年間ブラジルでプレー。その間も欧州のクラブでプレーすることを望み、ポルトガルやギリシャなどのクラブと交渉を重ねましたが、契約には至りませんでした。1998年に日本へ復帰し、翌シーズンに所属元の東京Vへ戻ります。 2003年、日本代表経験者初となるKリーグでプレーすることになりますが、全盛期を過ぎていたため良いパフォーマンスを見せることができませんでした。 2005年に現役を退き、解説者やサッカー教室を主宰するなど幅広く活動。2009年にはビーチサッカーのW杯に出場し、3試合2ゴールの成績を残しました。 J1リーグ:191試合34得点 J2リーグ:38試合11得点 代表記録 19試合4得点 2006年7月13日:新規アップ 2012年3月8日更新 ※鹿児島県薩摩川内市 |