前田 遼一(Ryoichi MAEDA)
フルネーム 前田 遼一(マエダ リョウイチ)
国籍 日本
出身地 兵庫県神戸市
生年月日 1981・10・9
身長 182cm
体重 75kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 2007・8・22
カメルーン戦
代表背番号 11
W杯メンバー  
ニックネーム マエチン
個人タイトル 00AFC年間最優秀新人選手
00AFCU−19アジアユース最優秀選手
09,10Jリーグ得点王
09,10Jリーグベストイレブン
10ナビスコカップ最優秀選手
チームタイトル 01,02ファーストステージ
02セカンドステージ
02Jリーグ
03/04天皇杯
10ナビスコカップ
11AFCアジアカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
00 ジュビロ磐田 24
01 ジュビロ磐田 24
02 ジュビロ磐田 18
03 ジュビロ磐田 18 28
04 ジュビロ磐田 18 27
05 ジュビロ磐田 18 25 12
06 ジュビロ磐田 18 27 15
07 ジュビロ磐田 18 22 12
08 ジュビロ磐田 18 22
09 ジュビロ磐田 18 34 20
10 ジュビロ磐田 18 33 17
11 ジュビロ磐田 18 28 14
12 ジュビロ磐田 18 33 14
13 ジュビロ磐田 18 33
14 ジュビロ磐田(J2) 18 37 17
15 FC東京 20 30
16 FC東京 20 29
17 FC東京 20    
豊富な得点パターンでの高い決定力はもとより、ポストやドリブル、味方へのサポート、パス出し、プレスと高度な戦術眼で時宜に応じたプレーができる磐田の大エースです。

兵庫県神戸市生まれ。小学校の時に横浜市へ引っ越して3年から本格的にサッカーに取り組むようになります。その後東京に引っ越して暁星中、高と進みます。
学校が都心にあったため常に広いグラウンドで練習するわけにはいかず、ピッチ全体を見渡す視野やオフ・ザ・ボールは改善する必要に迫られましたが、その分技術力向上に努めました。また、帝京の田中達らと共に国体選抜に入り、2年時にベスト8進出を果たしました。さらにV川崎(現東京V)の強化指定選手になるなど、アマ時代から高評価を得ていました。
卒業時にはJの13クラブからオファーを受け、中山、藤田、名波、高原など多くの日本代表を抱える磐田への入団を決断します。00シーズンの5月3日アウェーでの川崎F戦でJリーグにデビューしますが、中山や高原の存在もあり、この試合のみの出場に終わります。
01シーズンの8月28日ナビスコ杯の市原(現千葉)戦でプロ初得点をマークし、9月1日の2ndステージ開幕戦でJリーグ初得点を挙げます。しかし翌シーズンのナビスコ杯仙台戦で負傷し、右ヒザ外側半月辺縦断裂と診断されて戦線を離脱しました。
03シーズンに復帰。入れ違いで中山が恥骨結合炎によって戦線離脱すると、その代役として起用されるようになってFWとしてのプレーに専念できるようになりました。
05シーズンからレギュラーとなり、7月9日第15節のホームC大阪戦で初のハットトリックをマークするなど才能が開花します。終盤に戦線離脱するものの12得点を挙げて不可欠な存在となりました。翌シーズンは完全にレギュラーとなり、チーム最多得点を挙げました。
09シーズンは初めて全試合に出場、終盤の名古屋戦でハットトリックを決めるなど日本人としては2002年の高原以来7年ぶりの得点王に輝き、ベストイレブンにも初めて選ばれます。翌シーズンも3度の1試合2得点など17得点で名古屋のケネディとタイトルを分け合い、J史上初の2年連続得点王になります。ナビスコ杯でも広島との決勝で2得点を挙げてクラブに12年ぶりのタイトルをもたらしました。その後も山田大や金園、松浦といった若手とも良好な関係を築いて安定したプレーを披露します。しかし13シーズンはチーム状態の悪化もあって得点数が2ケタを割り込み、昇格した95シーズン以来守ってきたJ1の舞台を去ることになりました。
J2では序盤から3試合連続で得点を挙げるなど、駒野や松井とチームをけん引するものの、監督交代もあって成績が伸びず山形との昇格プレーオフで敗れました。
15シーズン、プロ入り以来過ごした磐田を離れてFC東京へ移籍します。2年ぶりのJ1は2ケタに届かなかったものの、神戸戦でハットトリックを決めました。翌シーズンもリーグで2ケタを割りましたが、ACLでは9試合で4ゴールを挙げています、

高校3年でU−18代表に選ばれます。プロ入り後にU−19代表の召集を受け、アジアユースでは1得点3アシストでチームを準優勝に導き、MVPを獲得しました。これを受けてテヘランで開催されたWユースに出場し、山瀬功や石川直と攻撃陣を組みますが、3試合で無得点に終わります。アテネ五輪予選でもプレーしましたが、本大会メンバーからは外れました。
2006年にオシム監督から初めてフル代表に呼ばれ、翌年8月22日カメルーン戦にてデビューします。その後就任した岡田監督にも選ばれて東アジア選手権北朝鮮戦で同点弾を挙げましたが、2010年W杯はバックアップメンバーにとどまりました。
ザッケローニ監督就任以降、2011年アジア杯は6試合3得点で2大会ぶりの優勝に貢献し、2014年W杯予選でも好調をキープして不動の1トップに君臨。しかし2013年コンフェデ杯では3試合で1点も取れず、柿谷や大迫の出現により本大会出場はなりませんでした。
代表記録

2013年3月26日:新規アップ 2016年12月23日更新