呂比須ワグナー(Wagner LOPES)
フルネーム ワグナー・アウグスト・ロペス
国籍 日本  
出身地 フランカ(ブラジル)
生年月日 1969・1・29
身長 182cm
体重 75kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1997・9・28
韓国戦
代表背番号 11 12 30
W杯メンバー 98年
ニックネーム  
個人タイトル 92,95,96ジャパンフットボールリーグ得点王
チームタイトル 88/89,89/90日本サッカーリーグ
88,89,90JSLカップ
88,89,99天皇杯
所属クラブおよび背番号 出場 得点
1985〜87 サンパウロ    
87/88 日産自動車(JSL1部) 21
88/89 日産自動車(JSL1部) 15
89/90 日産自動車(JSL1部) 13
90/91 日立製作所(JSL2部) 23 33
91/92 日立製作所(JSL1部) 20
92 柏レイソル(JFL) 17 13
93 柏レイソル(JFL) 18 18
94 柏レイソル(JFL) 18 17
95 本田技研(JFL) 30 31
96 本田技研(JFL) 30 36
97 ベルマーレ平塚 10 27 18
98 ベルマーレ平塚 10 29 18
99 名古屋グランパス 30 23 13
00 名古屋グランパス 30 28 10
01 FC東京 9 10
01 アビスパ福岡 39
02 アビスパ福岡(J2) 9 19
足元のテクニックと空中戦が得意で常に安定したプレーを見せるCFです。守備はあまり得意ではなく運動量も少ないものの、それを補ってあまりある決定力があります。

サンパウロ州フランカ生まれ。3歳の時に父親を失い家庭が貧しく、学業と仕事、週末に練習というハードな生活を送っていました。15歳で名門サンパウロFCに入団し翌年にプロ契約を交わしますが、カレカなど現役セレソンの存在により、出場機会には恵まれませんでした。
1987年夏、ブラジル代表DFオスカーとともに18歳で初来日。日産自動車(現横浜FM)に入り、日本に慣れていきます。日産では3年間プレーし、49試合で12ゴールを挙げました。しかしJ開幕を目前に戦力外通告を受け、失意のままに日立(現柏)へ移籍しました。
JFL時代は悔しさをバネにしてゴールを量産します。サンパウロでは壁だったカレカと2トップを組んで活躍し、クラブをJリーグ昇格へ導きました。しかし再び解雇を言い渡され、またもJリーグでのプレーを断念せざるをえなくなりました。その後移籍した本田技研(現ホンダFC)でも高い決定力を発揮し、95,96シーズンと2年連続得点王を獲得しました。
その活躍が実って1997年に平塚(現湘南)へ移り、来日10年目にして日の目を見ることとなります。開幕戦でJデビューし、1週間後には初ゴールをマークしました。名古屋に在籍していた99シーズンの5月29日浦和戦では5ゴールを挙げ、Jリーグの1試合最多ゴールタイ記録(他には中山雅史、野口幸司、エヂウソンが記録保持者)を作りました。
2002年に現役を退きますが、積み重ねたゴールが下部リーグ時代から合計203ゴールとなり、FW釜本の202ゴールを上回ることとなりました。現役を退いてからは日本やブラジルで後進の指導にあたり、12シーズンにG大阪のヘッドコーチに就任します。しかし開幕から続く低迷による引責辞任したセホーン監督と共に自らもチームを去っています。
JSL1部 69試合16得点 JSL2部 23試合33得点 JFL 113試合115得点
J1リーグ 125試合69得点 J2リーグ 19試合6得点

来日して10年目の1997年9月12日に帰化し、2週間後のW杯フランス大会予選の韓国戦にて先発して代表デビュー。3試合目のW杯予選ウズベキスタン戦の試合終了間際には、ドローに持ち込むヘディングで代表初ゴールを挙げました。その直後UAE戦、韓国戦と3試合連続ゴールを挙げる活躍で、日本のW杯初出場に貢献しました。
本大会は全て途中出場でしたが3試合出場。ジャマイカ戦の後半29分、相馬の左サイドからのクロスを頭で合わせて中山雅史のW杯の日本人初ゴールをアシストしました。
その後南米選手権に出場し、ペルー戦とボリビア戦で1ゴールずつ挙げました。
代表記録 20試合5得点
2006年10月6日:新規アップ 2012年3月27日更新