マルチェロ・リッピ(Marcello LIPPI)
フルネーム マルチェロ・リッピ
国籍 イタリア  
出身地 ヴィアレッジョ
生年月日 1948・4・11
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1985〜86 ポンテデーラ
1986〜87 シエナ
1987〜88 ピストイエーゼ
1988〜89 カラレーゼ
1989〜91 チェゼーナ
1991〜92 ルッケーゼ
1992〜93 アタランタ
1993〜94 ナポリ
1994〜99 2001〜04 ユヴェントス
1999〜01 インテル
2004〜06 2008〜10 イタリア代表
2012〜14 広州恒大(中国)
2016〜   中国代表
獲得タイトル 94/95,96/97,97/98,01/02,02/03セリエA
94/95,95/96セリエA年間最優秀監督(パンキーナ・ドーロ)
95/96コッパ・イタリア
95/96UEFAチャンピオンズ・リーグ
95/96(AEJ),97/98(UEFA)欧州年間最優秀監督
96FIFAインターコンティネンタル・カップ
96,98世界年間最優秀クラブ監督(IFFHS)
96欧州年間最優秀監督(UPES)
97,98,03セリエA年間最優秀監督(オスカル・デル・カルチョ)
97年間最優秀監督(オンズドール)
06FIFAワールドカップ
06世界年間最優秀代表監督(IFFHS)
12〜14中国リーグ
12中国カップ
13AFCチャンピオンズ・リーグ
13中国年間最優秀監督
現役時代はMFまたはリベロとしてプレー。19歳でサンプドリアに入り1970年9月27日にセリエAデビューします。1977年に降格しますが、主将を務めるなど10年間在籍しました。
華麗で頭脳的なプレーが特徴でしたが、ブルニチやファケッティなど層が厚かったこともあり、イタリア代表経験はありません(Bチームで2試合出場)。

1990年代半ばと2000年代前半にスクデット5回、チャンピオンズ・リーグ優勝1回、チャンピオンズ・リーグ準優勝3回とユヴェントスに黄金期をもたらし、2006年W杯でイタリアを24年ぶり4回目の優勝に導いた同国およびサッカー史を代表する名将です。
4−3−1−2が基本で、システム変更やコンバートで選手の能力を引き出します。攻守のバランスを重視し、ポゼッションを保ちながらチャンスをうかがう全員守備・全員攻撃を標榜、戦術に当てはまらず運動量の少ないファンタジスタや天才肌の選手を嫌う傾向があります。
現在は禁止されていますが、試合中にはベンチで好物の葉巻を嗜みます。

ルッケーゼにて34歳で現役を退き、監督ライセンスコースで優秀な成績を修めました。古巣サンプドリアのユースチームから指導者としてのキャリアが始まりますが、結果は出ませんでした。その後ポンテデーラを皮切りに国内の下部リーグ所属のクラブを転々としました。
89/90シーズンにチェゼーナに就任して初めてセリエAに挑みます。1年目は13位で残留に成功しますが、2年目の途中に解任されました。その後アタランタを率いてリーグ8位になりましたが、守備的な戦術を首脳陣から非難され1年で監督の座を追われました。
しかし93/94シーズンにナポリに就任します。財政危機にあえいでいたクラブでしたが、フェラーラ、F・カンナヴァーロの堅守とD・フォンセカの決定力を武器に、昨シーズン11位のチームを6位に押し上げてUEFA杯出場権を獲得しました。
この手腕により各クラブによる争奪戦の末ユヴェントスに就任。指導したフェラーラやタッキナルディに加え、デシャン、P・ソウザを獲って守備を強化します。ヴィアッリ、ラヴァネッリの2トップを支えるR・バッジョの調子が上がらず、その役割をより自らの戦術に適した2年目のデル・ピエロに託します。これにより9年ぶりのスクデット、国内カップの2冠を成し遂げました。
UEFA杯では1回戦でC・ソフィアと対戦。1stレグを落としますが、終了後に相手が資格のない選手を出場させたため没収試合となりました。フランクフルトやドルトムントなどを下し、パルマとの同国対決となった決勝は2試合でD・バッジョに連発され準優勝に終わりました。
2年目はR・バッジョとコーラーを放出。リーグ戦はミランの後塵を拝しますが、チャンピオンズ・リーグはグループリーグでデル・ピエロが5連発します。R・マドリーとの準々決勝2ndレグでもこのエースの同点弾で逆転勝利を呼び込みました。ナントとの準決勝ではヴィアッリが連発し、アヤックスとの決勝ではラヴァネッリで先制、リトマネンに同点にされますが、PK戦では相手の2人ミスに対し全員成功させ、クラブ11年ぶりのビッグイヤーを獲得しました。
3年目は2トップとP・ソウザを放出。ジダン、ヴィエリが加わった攻撃陣に2ケタゴールを挙げた選手はいませんでしたが、アタランタで指導したモンテーロが加わった守備陣が24失点に抑えスクデットを獲得しました。チャンピオンズ・リーグではグループリーグを無敗で突破、ローゼンボリとの準々決勝は1stレグこそ苦しみますが、2ndレグで2ゴールと突き放しました。前年の決勝の再戦となった準決勝はアウェーの1stレグで勝利して優位に立ち、最終的に6−2で勝利しました。ドルトムントとの決勝はリードレに2ゴールを献上します。途中出場のデル・ピエロのヒールで追いすがりますが、相手が投入したリッケンのループでとどめを刺されました。インターコンティネンタル杯ではデル・ピエロがリーベル相手に決勝ゴールを挙げました。
4年目はヴィエリとボクシッチを1年で放出し、ダーヴィッツと得点王F・インザーギを獲得。デル・ピエロが21ゴール、インザーギが18ゴールと爆発的な攻撃力でスクデットを防衛しました。チャンピオンズ・リーグはマンチェスター・Uに次ぐ2位でグループリーグを通過、D・キエフとの準々決勝ではインザーギが1stレグで同点ゴール、2ndレグでハットトリックします。モナコとの準決勝では1stレグでデル・ピエロがハットトリックを達成、「デル・ピッポ」と呼ばれる2トップは国内外で猛威を振るいました。そして3年連続で決勝に臨みますがR・マドリー相手に沈黙し、ミヤトヴィッチの一発に屈しました。
5年目はアンリが本領発揮に至らず、8節ウディネーゼ戦でデル・ピエロが負傷、インザーギやジダンも負傷して攻撃力が低下しました。チャンピオンズ・リーグはガラタサライ、ローゼンボリ、A・ビルバオとのグループリーグを首位で通過しますが、2月に辞任しました。
99/00シーズンにインテルに就任。ベルゴミの引退をブランで埋め、ヴィエリが加わった前線もロナウドやR・バッジョと世界最強と呼べる布陣でしたが、ロナウドの負傷によりスクデット争いに加われず、4位タイでリーグを終えました。その後のプレーオフでは確執があるR・バッジョが2ゴールを挙げてチャンピオンズ・リーグ出場権を手にしました。しかし翌シーズンの同大会予備選3回戦でヘルシンボリに敗れ、国内リーグ開幕戦を落として辞任しました。
01/02シーズンにユヴェントスに復帰します。ジダンとインザーギを放出し、ブッフォン、テュラム、ネドヴェドを獲得します。当初は4−4−2フラットでしたが、ネドヴェドを4−3−1−2のトップ下に配置して持ち味を発揮させます。これに呼応して2年目のトレゼゲが24ゴールで得点王に輝き、リーグ最多得点、最少失点と完璧な内容でスクデットを獲得しました。
翌シーズンは新加入のカモラネージが右MFに定着し、戦列に戻った右MFザンブロッタを左SBにコンバートしてサイド攻撃が活性化され連覇を達成。チャンピオンズ・リーグでは1次リーグを1位、2次リーグを2位で通過、バルセロナとの準々決勝では延長戦になりますが、サラジェタが決着をつけました。R・マドリーとの準決勝では1stレグを落としますが、2ndレグで逆転します。しかしネドヴェドがマクマナマンへのファールでイエローを受け、累積警告でミランとの決勝に出場停止となりました。試合も決め手を欠いてスコアレスドロー、PKで敗れました。
03/04シーズンはアッピアー、ミッコリ、レグロッターリエと若手を獲りますが、冬にダーヴィッツが退団。チャンピオンズ・リーグもデポルティボにR16で敗れて退任しました。
2004年欧州選手権終了後にイタリア代表に就任。従来の守備重視から司令塔ピルロを軸とした攻撃的な姿勢に方向転換します。それまでは強豪クラブの選手のみで構成された代表でしたが、DFグロッソ、ザッカルド、FWトニと中堅クラブからも戦力を発掘しました。2006年W杯予選はスロヴェニアとのアウェー戦の1敗にとどめて出場権を獲得しました。
国内リーグの不祥事が暗い影を落とす中で臨んだ本大会、グループリーグではガーナとアメリカに1勝1分、チェコとの3戦目はネスタが不在でしたが、代役のマテラッツィがゴールで起用に応えました。R16オーストラリア戦はマテラッツィが退場しますが、グロッソがエリア内で倒されたPKをトッティが決めました。ウクライナ戦はザンブロッタやトニの活躍で3−0、準決勝では開催国ドイツをグロッソとデル・ピエロのゴールで破りました。フランスとの決勝は早々と失点しますが、マテラッツィのヘッドで同点に追い付きます。その後はブッフォンやカンナヴァーロの堅守もあり相手の攻撃を防ぎました。マテラッツィとの衝突でジダンが退場した後からはブーイングが起こりますが、PK戦を5人全員が決めて24年ぶりに優勝し、史上初めてW杯とチャンピオンズ・リーグを制した監督になりました。
2008年、欧州選手権で8強に終わった代表の再建を託されます。11月の親善試合ギリシャ戦で引き分け、スペイン代表クレメンテ、アルゼンチン代表バシーレ両監督に並ぶ31試合連続無敗記録を打ち立てました。2010年W杯予選は組み合わせに恵まれ無敗で突破。2009年コンフェデ杯ではグループリーグでエジプトとブラジルに連敗しました。
2010年W杯本大会はパラグアイ戦でピルロが不在、ブッフォンが途中交代と誤算が続きますが、引き分けに持ち込みます。ニュージーランド戦もこの両輪がプレーできず、ジラルディーノや交代で入ったディ・ナターレ、パッツィーニが不発で3ポイントを取りこぼしました。スロヴァキア戦でも後手に回り、追いすがるも1点及ばずグループリーグ最下位に終わりました。
12シーズンに広州恒大に就任。パラグアイ代表バリオス、3年目はジラルディーノやディアマンティと同胞のアタッカーを獲得して国内リーグ3連覇を達成しました。
2013年ACLでは浦和と同居するグループリーグを首位で通過、決勝トーナメントでも準決勝柏戦では2戦で8−1と圧倒的な攻撃力で勝ちました。FCソウルとの決勝では1stレグでの2つのアウェーゴールが大きく、2ndレグを引き分けてクラブに初のアジアタイトルをもたらし、ヨーロッパとアジアのチャンピオンズ・リーグを制した初めての監督になりました。
クラブW杯では準決勝でバイエルンに完敗、A・ミネイロとの3位決定戦では前半で勝ち越しますが、ロナウジーニョらに逆転され4位になりました。
2016年から中国代表を率いています。

2017年12月12日:新規アップ

94/95ユヴェントス(国内2冠、UEFA杯準優勝)
ラヴァネッリ ヴィアッリ
  デル・ピエロ  
コンテ ディリーヴィオ
  P・ソウザ  
トリチェッリ フェラーラ
コーラー カレッラ
  ペルッツィ  

95/96ユヴェントス(CL優勝)
 ヴィアッリ 
デル・ピエロラヴァネッリ
デシャンコンテ
 P・ソウザ 
ペッソットトリチェッリ
ヴィエルコウッドフェラーラ
 ペルッツィ 

96/97ユヴェントス(リーグ優勝、CL準優勝)
デル・ピエロ ボクシッチ
  ジダン  
ユーゴヴィッチ ディリーヴィオ
  デシャン  
ペッソット ボリーニ
モンテーロ フェラーラ
  ペルッツィ  

97/98ユヴェントス(リーグ優勝、CL準優勝)
デル・ピエロ F・インザーギ
  ジダン  
ダーヴィッツ ディリーヴィオ
  デシャン  
ペッソット ビリンデッリ
モンテーロ ユリアーノ
  ペルッツィ  

99/00インテル
レコバ サモラーノ
  セードルフ  
ゲオルガトス サネッティ
ディ・ビアッジョ コエ
I・コルドバ シミッチ
  ブラン  
  ペルッツィ  

01/02ユヴェントス(リーグ優勝)
デル・ピエロ トレゼゲ
  ネドヴェド  
ダーヴィッツ ザンブロッタ
  タッキナルディ  
ペッソット テュラム
ユリアーノ フェラーラ
  ブッフォン  

02/03ユヴェントス(リーグ優勝、CL準優勝)
デル・ピエロ トレゼゲ
  ネドヴェド  
ダーヴィッツ カモラネージ
  タッキナルディ  
ザンブロッタ テュラム
ユリアーノ フェラーラ
  ブッフォン  

06イタリア代表(W杯優勝)
トニ ジラルディーノ
  トッティ  
ペッロッタ ガットゥーゾ
  ピルロ  
グロッソ ザンブロッタ
マテラッツィ カンナヴァーロ
  ブッフォン  

10イタリア代表(W杯出場)
 ジラルディーノ 
 マルキージオ 
ヤクインタペペ
モントリーヴォデ・ロッシ
クリッシトザンブロッタ
キエッリーニカンナヴァーロ
 ブッフォン