ヨルダン・レチコフ(Yordan LETCHKOV) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | ヨルダン・レチコフ | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | ブルガリア | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | スリヴェン | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1967・7・9 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 178cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 73kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(ST) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1989・10・11 ギリシャ戦 |
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代表背番号 | 9 11 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 94年 98年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ダンチョ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 89/90ブルガリアカップ | ||||||||||||||||||||||||||||
91/92ブルガリアリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
97/98トルコカップ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
84/85 スリヴェン | 12 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
85/86 スリヴェン | 17 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
86/87 スリヴェン | 20 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
87/88 スリヴェン | 21 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
88/89 スリヴェン | 26 | 10 | |||||||||||||||||||||||||||
89/90 スリヴェン | 29 | 12 | |||||||||||||||||||||||||||
90/91 スリヴェン | 30 | 18 | |||||||||||||||||||||||||||
91/92 CSKAソフィア | 29 | 17 | |||||||||||||||||||||||||||
92/93 ハンブルガーSV(ドイツ) | 29 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
93/94 ハンブルガーSV(ドイツ) | 33 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
94/95 ハンブルガーSV(ドイツ) | 30 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
95/96 ハンブルガーSV(ドイツ) 26 | 9 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
96/97 マルセイユ(フランス) | 28 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
97/98 ベジクタシュ(トルコ) 17 | 17 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
01/02 CSKAソフィア | 19 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
02/03 スリヴェン | 17 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
03/04 スリヴェン | 4 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
複数のポジションをこなす高い技術とスピーディーな飛び出しから決定機に多く絡む、1990年代のブルガリアを代表するプレーヤーです。 ブルガリアの南東部にあるスリヴェンに生まれます。地元のクラブでユース時代を過ごし、16歳で迎えた84/85シーズンにトップデビューします。出場機会と同時にゴールの数も着実に伸ばし、88/89シーズンはリーグ戦で初の2ケタゴールを挙げ、カップ戦も制します。翌シーズンはキャリア最多の18ゴールを挙げるなど国内最高峰の力をアピールしました。 そしてC・ソフィアに引き抜かれます。「マジシャン」と呼ばれる技巧と創造を駆使し、MFメトコフやFWアンドノフへのアシストと同時に17ゴールを挙げてチームをリーグ優勝に導きました。 その後ハンブルガーへ移り、ブルガリア人として初めてブンデスのピッチに立ちます。アルベルツやリトアニア代表イヴァナウスカスらと共に、4シーズン1部残留に成功しました。 その後のマルセイユではMFグラヴレーヌにボールを集めますが、首脳陣と対立して1年で退団しました。代表の僚友DFヤンコフが所属するベジクタシュでは、トシャック監督との論争が火種になってクラブとの関係が悪化、1998年W杯に出場できない最悪の事態となりました。 01/02シーズン以降は古巣でプレーし、03/04シーズンに引退しました。その後は経営者や故郷スリヴェンの市長、ブルガリアサッカー協会副会長(会長は同僚だったボリスラフ・ミハイロフ)など、幅広い活躍を見せています。 1989年10月11日、ギリシャとのフレンドリーマッチで代表デビューします。クラブでの活躍がありながら、3年後の欧州選手権予選は1試合の出場に終わりました。 1994年W杯予選では6試合戦ってオーストリア相手に初ゴールを挙げます。本大会では7試合に出場、メキシコとの決勝トーナメント初戦では最後のキッカーとして確実に決め、準々決勝ドイツ戦でのダイビングヘッドなど2ゴールを挙げて母国のベスト4に貢献しました。 1996年欧州選手権予選は、アルバニア戦でゴールを取るなど10試合に出場しますが、本大会3試合は沈黙しました。1998年W杯予選は6試合に出場してルクセンブルク戦でゴールを挙げますが、ベジクタシュとの衝突により、本大会に出られませんでした。 我が強いがゆえに監督、クラブ、協会との関係がこじれることが多く、共に黄金世代として名前が挙がるストイチコフ、バラコフ、コスタディノフに比べ、代表でのプレーは限定されました。 代表記録 45試合5得点 2017年9月12日:新規アップ |