イェンス・レーマン(Jens LEHMANN)
フルネーム イェンス・レーマン
国籍 ドイツ
出身地 エッセン
生年月日 1969・11・10
身長 190cm
体重 87kg
利き足
ポジション GK
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1998・2・18
オマーン戦
代表背番号 1 12
W杯メンバー 98年 02年
06年
ニックネーム  
個人タイトル 05/06UEFA最優秀GK
チームタイトル 96/97UEFAカップ
01/02ブンデスリーガ
03/04プレミアリーグ
04/05FAカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
87/88 シャルケ    
88/89 シャルケ 13
89/90 シャルケ 27
90/91 シャルケ 34
91/92 シャルケ 37
92/93 シャルケ
93/94 シャルケ 21
94/95 シャルケ 34
95/96 シャルケ 1 32
96/97 シャルケ 1 34
97/98 シャルケ 1 34
98/99 ミラン(イタリア) 16
98/99 ドルトムント 1 13
99/00 ドルトムント 1 31
00/01 ドルトムント 1 31
01/02 ドルトムント 1 30
02/03 ドルトムント 1 24
03/04 アーセナル(イングランド) 1 38
04/05 アーセナル(イングランド) 1 28
05/06 アーセナル(イングランド) 1 38
06/07 アーセナル(イングランド) 1 36
07/08 アーセナル(イングランド) 1
08/09 シュツットガルト 1 34
09/10 シュツットガルト 1 31
10/11 アーセナル(イングランド) 13
キャッチングに不安があるものの、ディフレクティングの技術は一級品です。また、的確なポジショニングでシュートコースを狭め、鋭い反射神経で近距離からのシュートにも反応します。
多少熱くなりやすく集中力が切れる場面もありますが、そのキャラクターと闘志あふれるセービングでファンの支持を集めています。

生まれ故郷のDJKハイシンゲンやS−Wエッセンで育ち、1987年にシャルケに入団して88/89シーズンに2部でプロデビューします。90/91シーズンに34試合出場、91/92シーズンに37試合出場と主力として活躍し、チームを1部に引き上げました。94/95シーズンの第21節、ホームでの1860ミュンヘン戦ではPKによるゴールも挙げました。
その存在が広く知れ渡ったのは、96/97シーズンのUEFA杯優勝によるものでした。インテルとの決勝では1stレグを1−0で勝ち、2ndレグで同点にされますが、その後のPK戦でサモラーノとヴィンテルのキックを止めて栄冠に輝きました。また、このシーズンはルールダービーでブンデスリーガ史上初となる流れの中でのGKの初ゴールも記録しています。
1998年にミランに入り、98/99シーズン開幕戦の9月13日ボローニャ戦でセリエAにデビューしますが、S・ロッシからポジションを奪えず半年で帰国しました。そしてドルトムントに入団しますが、シュテファン・クロスというチームの顔だったGKの後釜が元ライバルから加入した形となり、サポーターから非難されます。それでも即座に正守護神になって01/02シーズンのリーグ優勝に貢献。UEFA杯でも7試合戦って自身2度目の決勝進出を果たしました。
02/03シーズン、バイエルンとのアウェー戦では交代枠を使い切った後に退場処分を受け、FWコレルが代役を務める非常事態を招きました。また、アウェーのルールダービーではチームメートのFWアモローゾに暴言を吐いて退場処分になりました。チャンピオンズ・リーグでは12試合プレーし、R・マドリーとミランの2強の前に2次リーグで3位になりました。
2003年に金銭とギローム・バルミューズとのトレードでアーセナルに入団し、8月16日エヴァートン戦でプレミアデビューします。時折不安定な場面もありましたが、全38試合に出場して無敗優勝に貢献します。翌シーズンにはアルムニアと激しいポジション争いを繰り広げ、劣勢になったこともありましたが、シーズン後半になると好セーブを連発します。FA杯決勝のマンチェスター・U戦はPK戦までもつれ、最後にスコールズのキックを止めて頂点に立ちました。
05/06シーズンはチャンピオンズ・リーグの連続無失点記録を更新し、安定感が増したことを証明します。8試合戦い決勝に進みましたが、相手FWエトーを転倒させて一発退場になりました。その後ヴェンゲル監督との関係が悪化してサブに降格しました。
08/09シーズンにシュツットガルトへ移籍し、UEFA杯で8試合戦いながらリーグ3位となり、チャンピオンズ・リーグ出場権を獲得。翌シーズンの同大会は8試合戦いベスト16に進み、リーグ戦でもアウェーのマインツ戦で退場になるものの31試合に出場しました。
そして一度は引退しますが、アーセナルと再契約してアウェーのブラックプール戦で現役に復帰、1失点で勝利しました。終了後に契約満了で退団しています。

代表デビューは1998年2月18日のオマーン戦でした。経験で大きな差がある同い年のカーンとはいつも比較され、犬猿の仲という風にも伝えられますが実力に疑いの余地はなく、常に招集されます。コンフェデ杯は1999年と2005年で合計5試合出場しました。
2006年W杯ではカーンの不調もあり、クリンスマン監督から正GKに指名されます。本大会直前の日本戦で高原に2点を取られ、6試合戦った本大会でも開幕コスタリカ戦でワンチョペに2点を許して非難されましたが、準々決勝のアルゼンチン戦ではPK戦の直前にカーンと抱擁を交わして臨み、2本止めて勝利。母国開催の大会で3位の成績を残しました。
2008年欧州選手権ではカーンの引退やヒルデブラントの伸び悩みで正GKを確保し、10試合出場。本大会では6試合ゴールを守りましたが、決勝でスペインに敗れました。
代表記録 61試合

2006年1月12日:新規アップ 2015年8月1日更新