リカルド・ラボルペ(Richard LA VOLPE)
フルネーム リカルド・アントニオ・ラボルペ
国籍 アルゼンチン
出身地 ブエノスアイレス
生年月日 1952・2・6
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1983〜84 オアステペック(メキシコ)
1984〜86 アンヘレス・デ・プエブラ(メキシコ)
1988〜89 1991〜95 2012〜   アトランテ(メキシコ)
1989〜89 グアダラハラ(メキシコ)
1990〜91 ケレタロ(メキシコ)
1996〜96 アメリカ(メキシコ)
1998〜02 2009〜09 アトラス(メキシコ)
2002〜02 トルーカ(メキシコ)
2002〜06 メキシコ代表(オリンピック代表兼任)
2006〜06 ボカ・ジュニアーズ
2007〜07 ベレス・サルスフィエルド
2008〜08 モンテレー(メキシコ)
2010〜11 コスタリカ代表
2011〜11 バンフィールド
獲得タイトル 92/93メキシコリーグ
03CONCACAFゴールドカップ
現役時代はGKとして、バンフィールドやサン・ロレンソなど国内200試合以上出場。アルゼンチン代表はフィジョールの存在で8試合に出場しただけですが、1978年W杯では第3GKとして優勝を経験しました。その後はメキシコに活躍の場を移し、1984年に引退しました。

中盤での積極的なプレスで囲い込み、相手にスペースを与えないことを重視しています。3−5−2のフォーメーションを好み、ボールを奪ったあとはカウンターを仕掛けます。また、選手とボールが連動するため、選手には高いフィジカル能力と集中力が求められます。
ルックスや言動などが個性的であることも注目を集めています。

引退後、そのままオアステペックにて指導者としてのキャリアを始め、アトランテを率いた92/93シーズンに自身初タイトルとなる国内リーグ制覇を果たします。その後もグアダラハラやトルーカなどを率い、メキシコ国内でキャリアを重ねます。20年近くメキシコサッカーに携わり、国民ののメンタリティや文化も熟知、言語の問題も少ないなどのメリットがあり、2002年W杯後にアギーレ監督の退任を受けて代表に就任します。翌年地元で開催されたゴールド杯決勝では、カカ、ロビーニョ、ヂエゴらをそろえたU−23のブラジルを完封して優勝しました。
翌年のアテネ五輪ではブラジルから帰化したシーニャをオーバーエージで招集しましたが、決勝トーナメント進出はなりませんでした。コパ・アメリカでもアルゼンチンに勝利したもののブラジルに4−0と大敗を喫し、采配に批判が集中しました。しかしGKコロナや中盤のL・ペレスといった五輪勢の成長などで、ベテランと若手がかみ合いチームバランスがよくなります。
2005年コンフェデ杯のグループリーグでは欧州王者のギリシャと引き分け、日本、ブラジルに勝利しますが、準決勝でアルゼンチンにPK戦負けを喫しました。
2006年W杯予選では、アメリカとの直接対決に敗れたものの、ボルヘッティやフォンセカらの活躍により2位で突破し本大会出場を果たします。G・フランコをアルゼンチンから帰化させたり、それまで代表を支えたブランコをコンフェデ杯以来招集しなかったりと周囲との衝突が絶えませんでしたが、前回大会メンバーが23人中6人と、大幅な世代交代に成功しました。
しかしカルモナ、ガリンドの主力DFがドーピング検査で陽性反応を示し、1年間の出場停止処分を受けたのは痛手となりました。本大会ではアンゴラとドローを演じるなどグループリーグ突破も危ぶまれたものの、3戦目のポルトガルが主力を休ませていたため勝利し、決勝トーナメントに進出しました。しかし自身の祖国アルゼンチンに延長の末敗れました。
2006年より現役時代以来の祖国復帰を果たし、代表監督に就任するバシーレの後任としてボカに就任。国内ではリーベルやエストゥディアンテスなどライバルチームに負け、コパ・スダメリカーナでも敗退するなど結果を残すことができず、引責辞任しました。
その後もアルゼンチンとメキシコを主戦場にしますが、2010年9月にコスタリカ代表に就任します。しかし翌年のゴールド杯ではホンジュラスに準々決勝で敗れ、コパ・アメリカでもコロンビアとアルゼンチンの前にグループリーグ敗退と結果を残せませんでした。
コスタリカ代表を辞めた後はバンフィールドやアトランテと古巣を渡り歩いています。
2008年3月17日:新規アップ 2012年7月12日更新

06メキシコ代表(W杯出場)
ボルヘッティ フォンセカ
シーニャ フランコ
ピネダ ブラーボ
  バルド  
サルシード マルケス
  オソリオ  
  サンチェス