ラッセル・ラタピー(Russell LATAPY)
フルネーム ラッセル・ラタピー
国籍 トリニダード・トバゴ  
出身地 ポートオブスペイン
生年月日 1968・8・2
身長 174cm
体重 68kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK  
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1988・10・30
ホンジュラス戦
代表背番号 10
W杯メンバー 06年
ニックネーム 小さな魔術師
個人タイトル 83,85,89,96トリニダード・トバゴ年間最優秀選手
チームタイトル 94/95,95/96ポルトガルリーグ
96/97ポルトガルカップ
01/02スコットランドリーグ・カップ
04/05スコットランドリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
90/91 アカデミカ(ポルトガル2部) 31
91/92 アカデミカ(ポルトガル2部) 31
92/93 アカデミカ(ポルトガル2部) 34 12
93/94 アカデミカ(ポルトガル2部) 31
94/95 ポルト(ポルトガル) 14
95/96 ポルト(ポルトガル) 10 26
96/97 ボアヴィスタ(ポルトガル) 21
97/98 ボアヴィスタ(ポルトガル) 19
98/99 ハイバーニアン(スコットランド2部) 23
99/00 ハイバーニアン(スコットランド) 27
00/01 ハイバーニアン(スコットランド) 33
01/02 レンジャーズ(スコットランド) 16
02/03 レンジャーズ(スコットランド)
02/03 ダンディー・ユナイテッド(スコットランド)
03/04 フォルカーク(スコットランド2部) 32
04/05 フォルカーク(スコットランド2部) 32
05/06 フォルカーク(スコットランド) 20 30
06/07 フォルカーク(スコットランド) 20 37
07/08 フォルカーク(スコットランド) 20 32
08/09 フォルカーク(スコットランド) 20
09 カレドニア
広い視野、ボールキープ、ドリブル突破、スペースへの走り込みなど足元のテクニックに加え戦術眼と創造性を併せ持ったゲームメーカー。小柄な体格とドレッドヘアが特徴です。

首都ポートオブスペイン生まれ。10歳を迎えるころにはすでに卓越した技術で中心選手として活躍、U−16から代表に招集され、通算4度選ばれたトリニダード・トバゴ年間最優秀選手には16歳の若さで初選出されるなど、早熟の選手として将来を嘱望されました。
1990年W杯予選での結果への思いを断ち切るべく、ポルトガルのアカデミカへ入団。2部でしたが、毎年コンスタントに結果を出したことが認められてポルトへ引き抜かれます。
この強豪で10番を背負い、名将ボビー・ロブソンの下でユーゴスラヴィア代表ドゥルロヴィッチやポルトガル代表ドミンゴスなどの前線を生かしてリーグ連覇に貢献。翌シーズンのチャンピオンズ・リーグにもトリニダード・トバゴの選手として初めて出場しました。その後に加入したボアヴィスタでも国内カップや国内スーパー杯と結果を残しました。
98/99シーズンにスコットランドへ渡り、ハイバーニアンへ加入します。23試合6得点とプレミア昇格に貢献し、クラブ年間最優秀選手やリーグ年間最優秀選手に選ばれるなどすぐにサポーターを虜にする活躍を見せました。その後2シーズン続けてチームを1部残留に導きましたが、飲酒運転という愚行を犯してクラブと代表双方で居場所がなくなりました。
その後アドフォカート監督率いるレンジャーズに入団。しかし豊富な選手層の前にベンチスタートが多く、ハイバーニアン時代のマクレイシュ監督が就任すると世代交代を図ったため出場機会はわずかとなり、02/03シーズン途中でダンディーへ移籍しました。
03/04シーズンに2部フォルカークで再起を図ります。ここで輝きを取り戻して2度目の1部昇格に導きリーグ年間最優秀選手になります。PMにも就任してクラブに不可欠の存在となり、W杯終了後の06/07シーズンは38歳にして8月の月間MVPになります。その働きぶりは元同僚ヒューズ監督や、セルティックのストラカン監督から賞賛されました。
一度母国に戻った後、エディンバラで現役生活を終えて指導者キャリアを始めています。

2年後のW杯予選となる1988年10月30日ホンジュラス戦でデビュー。通算9試合戦い、1989年11月19日、引き分けで出場権を獲得できたアメリカ戦を落としました。
1994年W杯予選は4試合、1998年W杯予選は5試合、2002年大会の予選は12試合3得点と中心として活躍しますが結果が伴いませんでした。その後二度の代表復帰要請を固辞しますが、主将ヨークの電話での要請に応えて2006年W杯予選に復帰。故郷ポートオブスペインでのグアテマラ戦で久々の代表出場ながら得点を取り、べーンハッカー監督の下でコーチ兼任として6試合プレー。大陸間プレーオフでバーレーンを下して初出場を果たします。
本大会では38歳と高齢であることもあり、パラグアイ戦での1試合にとどまりましたが、16歳から出場を夢見ていたその舞台に足跡を残しました。
2008年には代表のアシスタントコーチに就任しますが、選手として2010年W杯予選に4試合出場し、アメリカ戦で得点を決めています。
代表記録 79試合29得点
2011年12月10日:新規アップ 2012年8月19日更新