久保 竜彦(Tatsuhiko KUBO)
フルネーム 久保 竜彦(クボ タツヒコ)
国籍 日本 久保
出身地 福岡県朝倉郡
生年月日 1976・6・18
身長 181cm
体重 73kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1998・10・23
エジプト戦
代表背番号 9 10 18 19
W杯メンバー  
ニックネーム タツ、ドラゴン
個人タイトル 03Jリーグベストイレブン
チームタイトル 03,04ファーストステージ
04セカンドステージ
03,04Jリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
95 サンフレッチェ広島
96 サンフレッチェ広島 22
97 サンフレッチェ広島 10 22
98 サンフレッチェ広島 10 32 12
99 サンフレッチェ広島 10 25 13
00 サンフレッチェ広島 10 24 11
01 サンフレッチェ広島 10 30 15
02 サンフレッチェ広島 10 28
03 横浜Fマリノス 9 25 16
04 横浜Fマリノス 9 19
05 横浜Fマリノス 9 10
06 横浜Fマリノス 9 29
07 横浜FC 9
08 サンフレッチェ広島(J2) 39 25
09 サンフレッチェ広島 39
10 ツエーゲン金沢(JFL) 9 27
11 ツエーゲン金沢(JFL) 9 23
13 廿日市FC(社会人1部)    
左足から放たれるシュートと打点の高いヘディングが武器で、単独でもゴールをこじ開けるポテンシャルを持つCFです。活躍してもケガをしやすいため不動のエースとは呼ばれませんが、身体能力が高く、柔と剛を兼ね備えています。愛称はドラゴンです。

福岡県朝倉郡三輪町に生まれ、小学校2年生までは野球をやっていました。しかし左手小指を切断する寸前の重傷を負い、グローブをはめられなくなったことがきっかけでサッカーを始めます。4年生から本格的に取り組んでいった当初からFWでプレーしていました。
地元の中学を経て名門筑陽学園に入学し、1993年、1994年に福岡選抜で国体に出場しました。しかし全国選手権や各年代の代表召集はありませんでした。
高校卒業後に広島に入団します。当初はMFとしてプレーしていましたが、高木の後継者としてFWへコンバートされ背番号10も受け継ぎます。1995年4月3日の清水戦でJリーグデビューを果たし、同年6月15日ナビスコ杯で公式戦初ゴール、10月2日のC大阪戦でJリーグ初ゴールを挙げました。翌年からエースとして君臨し、デビュー3年目の1998年から2001年まで2ケタゴールを挙げる活躍を見せ、2001年5月12日C大阪戦で通算50点を記録しました。これはJリーグ通算7000ゴール目のメモリアルゴールでもありました。
02シーズンはわずか7ゴールしか挙げられず、その影響もありチームはJ2に降格します。去就が注目される中磐田との激しい争奪戦の末、03シーズンより横浜FMでプレーします。岡田監督の下、1stステージの鹿島戦、2ndステージの仙台戦でハットトリックを挙げるなどゴールを量産して両ステージ制覇に大きく貢献し、クラブ初の年間完全制覇の立役者となったのです。このシーズンは通算16ゴールで、C大阪の大久保と共に日本人得点王となりました。
しかしその後はケガに悩まされるシーズンが続き、07シーズンより横浜FCを新天地に選びました。広島時代の先輩である高木監督の下、引退した城の穴を埋める存在としての活躍が期待され、開幕浦和戦では周囲の度肝を抜くロングシュートを決めました。しかしここでもケガに泣かされ、このゴールのみでシーズンが終わり、チームもJ2に降格しました。
08シーズンに古巣広島に6年ぶりに復帰。佐藤寿や柏木、森崎浩との左利きのユニットでJ2では規格外の攻撃力でJ1復帰を果たします。しかし再びケガに悩み、李忠成の加入もあり退団。JFL金沢でも2シーズンで終わって現役生活を終えます。
その後は廿日市FCのアンバサダーとなり、同クラブで小中学生を指導していましたが、13シーズンにMF桑原やFW大木と広島時代の同僚と共に現役復帰を果たしています。

1998年10月23日のエジプト戦で代表デビュー。トルシエ監督からも評価され、2001年コンフェデ杯で1試合プレーしますが、ケガが多く翌年W杯のメンバーには選ばれませんでした。
2003年4月15日の韓国戦で代表復帰を果たしたものの、持病の腰痛のため辞退します。同年12月に開催された第1回東アジア選手権の中国戦で代表初ゴールを挙げました。
2004年、W杯アジア1次予選のオマーン戦で終了直前に値千金のゴールを決めます。その後の海外遠征でもハンガリー、チェコ、アイスランド相手にゴールを挙げました。
W杯予選は通算6試合2ゴールでしたが、結果的にジーコ政権では最もゴールを挙げました。しかし不安定なコンディションが理由で2006年W杯メンバーから落選しました。
代表記録 32試合11得点
2006年1月7日:新規アップ 2013年4月13日更新