ラズロ・クバラ(Laszlo KUBALA)
フルネーム ラズロ・クバラ・シュテツ
国籍 ハンガリー※
出身地 ブダペスト
生年月日 1927・6・10
身長 176cm
体重 82kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1948・5・23
オーストリア戦
代表背番号  
W杯メンバー  
ニックネーム ククシ ラスリ
個人タイトル  
チームタイトル 50/51,51/52,52/53,56/57,
58/59コパ・デル・ヘネラリシモ
51/52,52/53,58/59,59/60リーガ・エスパニョーラ
57/58,59/60UEFAフェアーズ・カップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
44 ガンツ・トルナ
45 フェレンツヴァロシュ 22 19
45/46 フェレンツヴァロシュ 27 14
45/46 スロヴァン・ブラティスラヴァ(チェコ・スロヴァキア) 27 14
46/47 スロヴァン・ブラティスラヴァ(チェコ・スロヴァキア)
48/49 ヴァサス
49/50 ヴァサス 12
49/50 プロ・パトリア(イタリア)    
50/51 チネ・チッタ(イタリア)
51/52 バルセロナ(スペイン) 19 27
52/53 バルセロナ(スペイン) 11
53/54 バルセロナ(スペイン) 28 14
54/55 バルセロナ(スペイン) 19 13
55/56 バルセロナ(スペイン) 26 14
56/57 バルセロナ(スペイン) 18
57/58 バルセロナ(スペイン) 21 13
58/59 バルセロナ(スペイン) 20 10
59/60 バルセロナ(スペイン) 12
60/61 バルセロナ(スペイン) 12 10
61/62 バルセロナ(スペイン)
62/63 バルセロナ(スペイン)
62/63 エスパニョール(スペイン) 29
63/64 エスパニョール(スペイン)
65/66 FCチューリッヒ(スイス)
66/67 FCチューリッヒ(スイス)
67 トロント・ファルコンズ(カナダ) 19
68 トロント・ファルコンズ(カナダ)
3ヶ国でのプレー経験を持つハンガリー出身のインサイド・ライト。頑強な体格から強烈なシュートを繰り出し、完璧なテクニックや得点感覚も兼備、前線で絶大な存在感を発揮します。

英雄プスカシュと同様、1927年にハンガリーの首都ブダペストに生まれます。父親はレンガ職人、母親は工員として働いていました。地元のガンツ・トルナというクラブの下部組織に入り、11歳の頃にはすでに年上のチームでプレーする非凡な才能を見せつけていました。
1944年にプロデビューを果たすとすぐに強豪F・ヴァロシュに引き抜かれ、コチシュらと共にプレーします。その後S・ブラチスラヴァでも主力として活躍しました。
その後母国に戻りヴァサス、イタリアのクラブにも在籍しましたが大きな活躍には至りませんでした。しかし51/52シーズンにバルセロナへ入団、同胞ダウシク監督により前線の核として活躍、S・ヒホン戦で7得点、セルタ戦で5得点、セビージャやラシンからはハットトリックを記録するなど、国内リーグ19試合で27得点と大爆発し優勝に大きく貢献します。さらに決勝でバレンシアを破り国内カップを制し、チャンピオンズ杯の前身コパ・ラティーナでは準決勝でユヴェントスを4−2で下すと、決勝でもフランスのニースを下して優勝、ラテン杯や国内スーパー杯も制して5冠を達成しました。自身を中心とした素早い華麗なパス回しで多くのファンを魅了し、「カンプ・ノウ」建設の契機となったのです。
その後コチシュやチボールといった「マジック・マジャール」のメンバーを説得して入団させ、若いL・スアレスやエヴァリストといった攻撃陣で他チームを圧倒、58/59シーズンに国内2冠を達成、フェアーズ杯(後のUEFA杯、現ヨーロッパリーグ)との連覇なども達成しました。
しかし「魔術師」エレーラ監督と衝突して出場機会が激減、自身の不在によりチャンピオンズ杯では準決勝で宿敵R・マドリーに大敗を喫しました。また、翌シーズンは同大会で決勝に進んだものの自身は出場することなく、チームもベンフィカに敗れました。
バルセロナでは国内リーグで215試合に出場して138ゴールを挙げました。その後近くにあるエスパニョールに入団してPMになり、ディ・ステファノと共にチーム力を上げました。その後スイスやカナダを渡り歩いて現役を終えました。
監督としてはバルセロナなどを指導、1978年W杯や1992年のバルセロナ五輪では代表の指揮を執り、後者では金メダルを獲得。1995年にはパラグアイ代表監督も務めました。
2002年5月17日にバルセロナで74歳で死去しています。

1946年に父親が他界したことに伴い家族でチェコ・スロヴァキアへ移住し、10月27日アルバニア戦にて国際デビューを果たします。その後ハンガリーへ戻って3試合プレーしました。
その後スペインへ亡命して同国籍を取得、デビューを果たし19試合で11得点。W杯予選は1954年大会に1試合、1958年大会では4試合4得点の成績を残しました。1957年トルコ戦ではハットトリックも記録するなど主力として活躍していたこともあり、「マジック・マジャール」と呼ばれた全盛期のハンガリー代表でプレーすることはありませんでした。
1962年W杯メンバーの有力候補でもありましたが、プレーすることなくキャリアを終えました。
代表記録 3試合
チェコ・スロヴァキア代表デビュー:1946・10・27 アルバニア戦 代表記録:6試合4得点
スペイン代表デビュー:1953・7・5 アルゼンチン戦 代表記録:19試合11得点

余談
・一般的にはスペインでの「ラディスラオ」が使用されていますが、ここではハンガリー名の「ラズロ」を使用しております。また、チェコ・スロヴァキアでの名前は「ラディスラフ」です。
・1953年10月21日には、カタルーニャ選抜としてもプレーしています。
※:チェコ・スロヴァキア、スペインの国籍もあり
2009年6月1日:新規アップ 2012年8月22日更新

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