ルート・クロル(Ruud KROL)
フルネーム ルドルフ・ヨゼフ・クロル
国籍 オランダ
出身地 アムステルダム
生年月日 1949・3・24
身長 182cm
体重 80kg
利き足
ポジション DF(LSB)
FK PK  
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1969・11・5
イングランド戦
代表背番号
W杯メンバー 74年 78年
ニックネーム ルート
個人タイトル  
チームタイトル 69/70,71/72,72/73,76/77,78/79,
79/80エールディヴィジ
69/70,70/71,71/72,79/80オランダカップ
70/71,71/72,72/73UEFAチャンピオンズ・カップ
72FIFAインターコンティネンタル・カップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
68/69 アヤックス
69/70 アヤックス 34
70/71 アヤックス 24
71/72 アヤックス 33
72/73 アヤックス 34
73/74 アヤックス 34
74/75 アヤックス 24
75/76 アヤックス 31
76/77 アヤックス 33
77/78 アヤックス 34
78/79 アヤックス 24
79/80 アヤックス 33
80 ホワイトキャップス(カナダ) 16
80/81 ナポリ(イタリア) 29
81/82 ナポリ(イタリア) 27
82/83 ナポリ(イタリア) 30
83/84 ナポリ(イタリア) 21
84/85 カンヌ(フランス2部) 34
85/86 カンヌ(フランス) 29
ミケルス監督の下、クライフと共にアヤックスとオランダ代表で「トータル・フットボール」を体現したプレーヤー。大型ながらスピードや技術に優れ、情勢を冷静に把握する頭脳と統率力により攻守に幅広く活躍、左SBとリベロという異なるポジションで世界的な地位を確立させました。

首都アムステルダム生まれ。地元ルード・ビットというクラブでのプレーが強豪アヤックスに注目されて17歳で加入し、以降世界屈指の育成組織で成長を遂げました。
ミケルス監督により1968年12月11日DWS戦でトップリーグデビュー。翌年に主力のファン・ドゥイヴェンボーデがフェイエノールトへ去ったため左SBを確保します。そして国内2冠を達成、翌70/71シーズンからはチャンピオンズ杯3連覇(1回目の決勝は出場できず。71/72シーズンは3冠。)、国内リーグ優勝6回、カップ優勝4回、インターコンティネンタル杯でもインデペンディエンテを下すなど、クラブでもっとも輝かしい時代の中心選手として活躍し、1979年のバロンドール投票で3位になりました(1位はケビン・キーガン、2位はK−H・ルンメニゲ)。
1980年5月17日フェイエノールト戦を最後にオランダを去り、短期間北米リーグのW・キャップスでプレーしましたが、ほどなく欧州へ復帰します。
ナポリではリベロとして絶大な存在感を発揮し、マラドーナが加入する前の英雄となりました。その後フランスのカンヌで2年プレーし、現役生活に終止符を打ちました。
その後は指導者として母国オランダ代表や古巣アヤックスをはじめ、世界で活躍しています。

クラブでレギュラーに定着した頃に代表に招集され、1969年11月5日イングランド戦でデビュー。1974年W杯予選に6試合出場すると、本戦では、クライフ、ニースケンス、レンセンブリンクらと共に全7試合ピッチに立ちます。1次リーグのブルガリア戦ではオウンゴールを献上しますが、2次リーグのアルゼンチン戦でゴールを挙げて汚名を晴らし、チームの決勝進出の原動力になりました。2年後の欧州選手権でも準決勝に進出しています。
クライフが代表から離れると腕章を受け継ぎ、1978年W杯予選で6試合、本戦でもポジションをリベロに変更して前大会に続き全7試合に出場しましたが、再び準優勝に終わりました。
1980年欧州選手権ではグループリーグで敗退し、1982年W杯予選では6試合に出場するものの敗退しました。1983年2月16日スペイン戦まで出場した83試合は、2000年6月29日にアーロン・ヴィンテル、その後のF・デブールに更新されるまでの最多出場記録でした。
代表記録 83試合4得点
2011年11月7日:新規アップ 2013年9月11日更新

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