ダルコ・コヴァチェヴィッチ(Darko KOVACEVIC)
フルネーム ダルコ・コヴァチェヴィッチ
国籍 セルビア
出身地 コヴィン
生年月日 1973・11・18
身長 188cm
体重 79kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1994・12・28
アルゼンチン戦
代表背番号 22
W杯メンバー 98年
ニックネーム  
個人タイトル  
チームタイトル 94/95,95/96ユーゴスラヴィアカップ
07/08ギリシャリーグ
07/08ギリシャカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
92/93 プロレテル 22 15
93/94 プロレテル 29 22
94/95 レッドスター 31 24
95/96 レッドスター 16 13
95/96 シェフィールド(イングランド) 18 16
96/97 レアル・ソシエダ(スペイン) 9 35
97/98 レアル・ソシエダ(スペイン) 9 33 17
98/99 レアル・ソシエダ(スペイン) 9 30 16
99/00 ユヴェントス(イタリア) 18 26
00/01 ユヴェントス(イタリア) 18 21
01/02 ラツィオ(イタリア) 9
01/02 レアル・ソシエダ(スペイン) 9 19
02/03 レアル・ソシエダ(スペイン) 9 36 20
03/04 レアル・ソシエダ(スペイン) 9 36
04/05 レアル・ソシエダ(スペイン) 9 30
05/06 レアル・ソシエダ(スペイン) 9
06/07 レアル・ソシエダ(スペイン) 9 33
07/08 オリンピアコス(ギリシャ) 9 28 17
08/09 オリンピアコス(ギリシャ) 9 14
高さと強さが兼ね備わったフィジカルでポストや空中戦で存在感を発揮し、繊細なテクニックでためを作って味方の押し上げを促す典型的なCFです。

地元ラドニツキを経てプロレテルでキャリアを始めます。1年目から素晴らしい成績を残してレッドスターに引き抜かれ、D・スタンコヴィッチ、D・ペトコヴィッチといった周囲のサポートもあり、その威力をさらに加速させると、国内カップ連覇も達成しました。
シェフィールドでは同胞ステファノヴィッチが在籍し、ワドルやペトレスクとパスの出所がなくはなかったものの、イングランドでの生活になじめず1年で退団しました。
95/96シーズンにR・ソシエダに移籍、ここで35試合8得点と手ごたえをつかむと、2年目にはポルトガル代表サ・ピントによるスペースメイク、3年目はデ・ペドロの高精度クロスと徐々に得点チャンスが増え、リーガ屈指のストライカーとなりました。
ユヴェントスではデル・ピエロとインザーギの間に割って入ることはできませんでしたが、彼らの負担を減らす役割を担い、99/00シーズンのUEFA杯では10ゴールで得点王に輝きました。サラスと入れ替わる形で移ったラツィオでは、C・ロペスやクレスポの前にノーインパクトに終わりますが、02/03シーズンにR・ソシエダに復帰し、ニハトとのコンビでチームをR・マドリーと最終節まで優勝を争うまで躍進させ、ランキング3位の20得点を挙げました。
これにより翌シーズンのチャンピオンズ・リーグ出場権を獲得し、7試合2得点でチームの決勝トーナメント進出に貢献します。国内リーグではこの年以降低迷し、X・アロンソ、カルピン、デ・ペドロの退団もあり得点数が減少、06/07シーズンで降格が決定しました。
これを受けてオリンピアコスに入団します。ジョルジェヴィッチやガジェッティと良質なパサーの存在もありランク2位の17得点を挙げてリーグ優勝に貢献。チャンピオンズ・リーグでも8試合3得点でチームを決勝トーナメントに導きました。2年目は14試合4得点でしたが、チャンピオンズ・リーグでは4試合の途中出場ながら2得点と決定力の健在をアピールします。しかし体調不良でこのシーズンを最後に引退。その後はオリンピアコスで若手を育てています。

1994年12月28日アルゼンチン戦で代表デビュー。1996年にはキリン杯を戦うために来日、ミロセヴィッチ、ストイコヴィッチ、ユーゴヴィッチと共に攻撃陣を形成、日本戦ではカズに先制点を許し、そのままタイムアップになりました。
1998年W杯予選は1試合だけでしたが、本大会メンバーに入って2試合プレーしました。2年後の欧州選手権では初戦に先発しましたが、結果が出ずミロセヴィッチの控えに回りました。
2002年大会の予選は5試合無得点で敗退しています。
代表記録(ユーゴスラヴィア) 50試合8得点
代表記録(セルビア・モンテネグロ) 8試合2得点

2012年2月4日:新規アップ 2015年7月5日更新