清武 弘嗣(Hiroshi KIYOTAKE) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 清武 弘嗣(キヨタケ ヒロシ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ![]() |
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出身地 | 大分県大分市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1989・11・12 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 172cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 63kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(OMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | FK PK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2011・8・10 韓国戦 |
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代表背番号 | 8 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 14年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | キヨ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 11Jリーグベストイレブン | ||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 08ナビスコ、17ルヴァンカップ | ||||||||||||||||||||||||||||
17天皇杯 | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
08 大分トリニータ 28 | 8 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
09 大分トリニータ 28 | 23 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
10 セレッソ大阪 13 | 25 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
11 セレッソ大阪 13 | 25 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
12 セレッソ大阪 8 | 16 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
12/13 ニュルンベルク(ドイツ) 13 | 31 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
13/14 ニュルンベルク(ドイツ) 13 | 33 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
14/15 ハノーファー(ドイツ) 28 | 32 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
15/16 ハノーファー(ドイツ) 10 | 21 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
16/17 セビージャ(スペイン) 14 | 4 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
17 セレッソ大阪 46 | 18 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
18 セレッソ大阪 46 | 20 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
19 セレッソ大阪 46 | |||||||||||||||||||||||||||||
優れたボディバランスを擁し、躍動感あふれるドリブルからのクロス、スルーパス、ダイレクト、正確なFKといった個人技に加え、前からの守備も怠らない攻撃的MFです。 アマチュアでFWとしてプレーしていた父親の影響を受け、小学1年から明治北SSCでサッカーを始めます。地元で有名な「清武三兄弟」の次男として、長男勇太、福岡大に在籍しながら鳥栖でもプレーする弟の功暉と共に父親から厳しい指導を受けて切磋琢磨します。4年でレギュラーに定着し、GKからFWまでこなすオールラウンドプレーヤーとして活躍しました。 小学6年時に出場した全国大会の準々決勝でレッドカードを受けた際、審判に暴言を吐くなど精神面に課題を残し、卒業時の身長も142cm程でした。しかし、外部から選手を獲らないスタンスの大分ジュニアユースからオファーされるほど、テクニックは卓越していました。 下部組織で「最高傑作」と言われ、左足の小指を骨折して高校2年の終わりから1年間プレーできない状況ながら2007年11月にトップ昇格が決まるなど評価を得る中、2008年8月9日清水戦でのJデビューを同点弾で飾ります。家長、金崎、2年目は東も加わり、彼らとの連動で23試合3得点の成績を残しますが、チームの財政難と降格に伴いC大阪へ移籍します。 レンタルバックした家長や乾、香川、播戸と共にリーグ3位になり、香川が海外へ去った後の11シーズンはACLで9試合3得点をマーク。Jリーグではチームの順位こそ過密日程もあり大幅に下がりましたが、自身は7得点8アシストでベストイレブンになりました。 12シーズンに森島寛や香川が背負った8番に変えますが、ニュルンベルクへ移ります。8月15日ハンブルガー戦でブンデスにデビューし、続くドルトムント戦でCFペクハルトをおぜん立てし、前年4位のボルシアMG相手に1得点2アシストと全得点に絡みます。その後もプレースキックなどからリーグ4位の10アシストを挙げました。2年目はプレミアのアストン・ヴィラからもオファーを受けるものの残留、開幕2戦目でFKを決め、FWドルミッチなどに8アシストしました。 チームが降格した後、酒井宏擁するハノーファーへ。ドルトムント戦の決勝FK、バイエルン相手の先制点、1部残留がかかった最終節での先制点と要所で勝負強さを見せました。2年目はハンブルガー戦やホッフェンハイム戦などで背番号10を託してきたクラブの期待に応えますが、ケガでフル稼働には至らず最下位で降格となりました。 16/17シーズンにセビージャと4年契約します。8月20日エスパニョールとの開幕戦で1得点1アシストするも、バスケスやナスリの前に出番を得られませんでした。 C大阪ではリーグで川崎F相手の追加点、清水戦終了間際の同点PK、鳥栖相手の決勝弾など杉本、ソウザ、柿谷と連携。ルヴァン杯で4試合、天皇杯で5試合戦い優勝しました。2年目も仙台相手の2得点やFC東京、横浜FM相手の決勝点と勝負強さを見せました。 2011年8月10日韓国戦でフル代表デビューし、本田圭と香川を、2014年W杯予選北朝鮮戦でも吉田麻の決勝点をアシストして瞬く間に定着します。 ロンドン五輪でも全6試合に先発出場してベスト4になり、2014年W杯予選では11試合に出場してオマーン戦で初得点を挙げて定着します。しかしコンフェデ杯はブラジル戦のみの1試合、W杯もコロンビア戦終了間際の途中出場と、不完全燃焼に終わりました。 2015年アジア杯はベンチスタートで3試合出場しました。 代表記録 2012年8月4日:新規アップ 2018年12月21日更新 |