北澤 豪(Tsuyoshi KITAZAWA)
フルネーム 北澤 豪(キタザワ ツヨシ)
国籍 日本 北澤
出身地 東京都町田市
生年月日 1968・8・10
身長 168cm
体重 67kg
利き足
ポジション MF(CMF)
FK PK  
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1991・6・2
タイ戦
代表背番号 8 13 14
W杯メンバー  
ニックネーム キーちゃん
個人タイトル 90/91日本サッカーリーグ得点王
90/91,91/92日本サッカーリーグベストイレブン
94Jリーグベストイレブン
03Jリーグ功労選手賞
チームタイトル 91/92日本サッカーリーグ
92ナビスコカップ
92,95,98ダイナスティカップ
92AFCアジアカップ
93,94,95セカンドステージ
93,94Jリーグ
96天皇杯
所属クラブおよび背番号 出場 得点
87/88 本田技研(JSL1部)
88/89 本田技研(JSL1部)
89/90 本田技研(JSL1部) 22
90/91 本田技研(JSL1部) 22 10
91/92 読売クラブ(JSL1部) 20
91/92 読売クラブ(JSL1部) 14 20
92 ヴェルディ川崎    
93 ヴェルディ川崎 35
94 ヴェルディ川崎 40
95 ヴェルディ川崎 40 11
96 ヴェルディ川崎 28
97 ヴェルディ川崎 8 29
98 ヴェルディ川崎 8 34
99 ヴェルディ川崎 8 28
00 ヴェルディ川崎 8
01 東京ヴェルディ 8 23
02 東京ヴェルディ 8
小柄ですが、豊富な運動量が最大の持ち味で、中盤から前線に飛び出してゴールを奪ったりスペースを作ったりします。またある時は執拗なマンマークでボールを奪い取ります。
高校時代は短髪でしたが、卒業後から伸ばした長髪がトレードマークとなっています。

東京都町田市に生まれました。サッカーが盛んな地にあって、小学校1年の時父親に勧められサッカーを始め、地元のチーム(町田スリーエス)に入部します。クラブでの練習が終わっても父親に厳しく指導され、スタミナを強化。その後6年で市選抜チームの主将となりました。
中学に進むと、読売クラブ(後のV川崎、現東京V)のジュニアユースに入団します。1学年下の菊原らと共に着実に成長、2年時は西ドイツ遠征も経験します。そしてMF奥寺康彦が所属するブレーメンの試合を観戦して刺激を受けました。
その後、実家が引っ越した都合で強豪の修徳高校に進みレギュラーになると、インターハイではベスト8に進出。国体では東京選抜となり、帝京の礒貝らと共に優勝を経験しています。
高校卒業と同時に日本リーグ2部の本田技研(現ホンダFC)に入社し、3年目に欧州や南米に留学を経験。そして宮本征勝監督により加入3年目の89/90シーズンに抜擢されると全試合に出場し、FW黒崎やDF勝矢らと共に監督の期待に応えます。90/91シーズンは得点力が開花、読売の戸塚、日産(現横浜FM)のレナトと得点王のタイトルを分け合いました。
その後クラブがJリーグ参加を見送ったため移籍を決意し、7月に読売に入団しました。翌月のカップ戦では決勝で本田と当たり、途中出場しゴールを決めてタイトル獲得に貢献しました。
Jリーグ開幕後は既存のカズ、ラモス、武田に加えビスマルクの加入もあり攻撃陣が飽和状態だったため、トップ下からポジションを下げて後方から上がりスペースを作ることに専念しました。そしてJリーグ黎明期のV川崎の黄金時代に欠かせない選手となったのです。94シーズンのチャンピオンシップ、広島との第1戦では決勝ゴールを挙げ、年間優勝に貢献しています。
1996年の天皇杯獲得以降は、中位から下位をさまよう苦しいシーズンが続きます。しかし1998年10月17日に通算200試合出場を達成します。翌99シーズンより主将に就任し、豊富な経験で精神的支柱としてチームを牽引しました。
2003年1月28日に現役を引退。通算出場試合は265試合で、クラブ史上最多の記録です。その後は海外でサッカー教室を開いたり、解説者を務めたりするなど幅広く活動しています。
J1リーグ 265試合41得点

自身が得点王になった1991年、横山謙三監督に招集され6月2日タイ戦で代表デビュー。すぐに先発に定着し、翌年のアジア杯中国戦で初ゴールを決めアジア制覇に貢献しました。
代表でもカズやラモス、柱谷とクラブと同じ顔ぶれだったので実力を発揮しやすかった環境でしたが、1994年W杯予選では森保一の台頭によりサブに降格します。唯一出場した1993年10月28日の韓国戦で先発出場すると、3トップの後方で攻守に奮闘しW杯出場へ望みをつないだものの、その後のイラク戦ではベンチで「ドーハの悲劇」を経験しました。
1998年W杯予選は6試合出場、「ジョホールバルの歓喜」となったイラン戦でも先発しましたが、最終選考でカズ、市川とともに落選しました。とはいえその後代表復帰を果たし、1999年6月6日のペルー戦で中田英に代わって途中出場しました。
横山監督からトルシエ監督まで計6人に招集された自身のダイナミズムあふれるプレーは、どの監督にとっても計算できる戦力だったといえるでしょう。
代表記録 59試合3得点
2010年5月10日:新規アップ 2012年2月26日更新