マリオ・ケンペス(Mario KEMPES)
フルネーム マリオ・アルベルト・ケンペス・キオディ
国籍 アルゼンチン  
出身地 ベル・ビジェ
生年月日 1954・7・15
身長 181cm
体重 78kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1973・9・23
ボリビア戦
代表背番号 10 11
W杯メンバー 74年 78年
82年
ニックネーム 闘牛士
個人タイトル 74,76アルゼンチンリーグ得点王
76/77,77/78リーガエスパニョーラ得点王
78FIFAワールドカップ得点王(6得点)
78南米年間最優秀選手(エル・ムンド紙)
チームタイトル 78FIFAワールドカップ
78/79コパ・デル・レイ
79/80UEFAカップウィナーズ・カップ
81アルゼンチンリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
73 インスティトゥート・AC・コルドバ 13 11
74 ロサリオ・セントラル 36 29
75 ロサリオ・セントラル 40 35
76 ロサリオ・セントラル 22 21
76/77 バレンシア(スペイン) 34 24
77/78 バレンシア(スペイン) 34 28
78/79 バレンシア(スペイン) 30 12
79/80 バレンシア(スペイン) 32 22
80/81 バレンシア(スペイン) 12
81 リーベル・プレート 29 15
82 リーベル・プレート
82/83 バレンシア(スペイン) 27 13
83/84 バレンシア(スペイン) 15
84/85 エルクレス(スペイン) 17
85/86 エルクレス(スペイン) 21
86/87 ファースト・ヴィエナ(オーストリア) 20
87/88 ザンクト・ペルテン(オーストリア2部) 32 10
88/89 ザンクト・ペルテン(オーストリア) 29
89/90 ザンクト・ペルテン(オーストリア) 35 15
90/91 クレムセル(オーストリア) 21
91/92 クレムセル(オーストリア) 18
95 フェルナンデス・ビアル(チリ2部) 11
96 ペリタ・ジャヤ(インドネシア) 15 10
長髪をなびかせる大きなストライドでの突破から強烈なシュートを放つストライカー。その華麗でダイナミックなプレーにより「エル・マタドール=闘牛士」という異名をとります。

コルドバ生まれ。アマチュア選手である父親の影響を受けて9歳でサッカーを始めます。17歳でボカの入団テストを受けるものの不合格となり、地元I・コルドバでキャリアを始めます。
1973年10月5日ニューウェルス戦で1部デビューを果たし、4日後のリーベル戦で初ゴールを挙げました。ロサリオへ移籍すると才能が開花、1974年後期リーグ、1976年前期リーグで得点王に輝くなど、公式戦107試合で86ゴールをマークしました。
76/77シーズンにアルゼンチン人選手最高額でバレンシアと2年契約します。9月5日セルタ戦でリーガデビューし2年連続で得点王、W杯の活躍もあり1978年の南米MVPになりました。3年目は国内カップ、4年目は欧州スーパー杯とカップウィナーズ杯を制しました。
リーベルでは18ゴールを挙げるディアスと2トップを組んでリーグ優勝を果たしました。復帰したバレンシアでは2年間2ケタ順位と苦しみましたが、通算116ゴールは185ゴールのムンド・スアレス、117ゴールのフェルナンドに続くクラブ歴代3位の記録となっています。
エルクレスでは2年目に17位に終わって降格し、オーストリアに活躍の場を移します。87/88シーズンの2部St・ペルテンでは10ゴールで1部昇格に貢献しました。
1992年に現役を退きバレンシアのアシスタントコーチに就任しますが、1995年にチリで現役復帰を果たし、翌年にはインドネシアで選手と監督を兼任しながら10ゴールを挙げました。
その後はアルバニア、ベネズエラ、ボリビアで監督を務めています。

U−18として1972年4月19日のポルトガル戦でデビューし、翌年9月23日のボリビア戦でフル代表デビューします。ウェンブリーでのイングランド戦で2ゴールを挙げ、1975年コパ・アメリカでは4試合で3ゴールを挙げるなどエースとして存在感を高めました。
W杯は1974年から3大会連続出場を果たします。地元開催の1978年大会は国内が軍事政権下にあり、選手の国外移籍が禁止されている中でメノッティ監督も国内クラブの選手を中心にチーム作りをしていましたが、唯一国外クラブから招集されます。そしてポーランド戦、ペルー戦、オランダ戦で2ゴールずつ決めて母国を初優勝に導き、得点王とMVPになりました。
6試合に出場した1974年と5試合に出場した1982年はノーゴールに終わりました。
代表記録 44試合20得点

余談
・自らの1978年W杯の活躍により、少年時代に医師を目指していたバティストゥータはサッカー選手への道を進むことになりました。
2018年1月1日:新規アップ