カズ(KAZU)
フルネーム 三浦 知良(ミウラ カズヨシ・Kazuyoshi MIURA)
国籍 日本 カズ
出身地 静岡県静岡市
生年月日 1967・2・26
身長 177cm
体重 72kg
利き足
ポジション FW(ST)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1990・9・26
バングラデシュ戦
代表背番号 11
W杯メンバー  
ニックネーム キング・カズ
個人タイトル 90/91,91/92日本サッカーリーグベストイレブン
92日本年間最優秀選手
92ナビスコカップ最優秀選手
92アジア年間最優秀選手(AFC)
92AFCアジアカップ最優秀選手
93Jリーグ年間最優秀選手
93,95,96Jリーグベストイレブン
96Jリーグ得点王
チームタイトル 89パラナ州選手権
90/91,91/92日本サッカーリーグ
91JSLカップ
92,93ナビスコカップ
92AFCアジアカップ
92,95,98ダイナスティカップ
93Jリーグ
96天皇杯
98/99クロアチアリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
90 サントス(ブラジル)    
90/91 読売クラブ(JSL1部) 24 18
91/92 読売クラブ(JSL1部) 11 21
92 ヴェルディ川崎    
93 ヴェルディ川崎 36 20
94 ヴェルディ川崎 22 16
94/95 ジェノア(イタリア) 21
95 ヴェルディ川崎 26 23
96 ヴェルディ川崎 27 23
97 ヴェルディ川崎 11 14
98 ヴェルディ川崎 11 28
98/99 クロアチア・ザグレブ(クロアチア) 13 12
99 京都サンガ 36 11
00 京都サンガ 11 30 17
01 ヴィッセル神戸 11 29 11
02 ヴィッセル神戸 11 17
03 ヴィッセル神戸 11 24
04 ヴィッセル神戸 11 21
05 ヴィッセル神戸 11 12
05 横浜FC(J2) 11 16
05/06 シドニーFC(オーストラリア) 21→11
06 横浜FC(J2) 11 39
07 横浜FC 11 24
08 横浜FC(J2) 11 30
09 横浜FC(J2) 11 30
10 横浜FC(J2) 11 10
11 横浜FC(J2) 11 30
12 横浜FC(J2) 11 14
13 横浜FC(J2) 11 18
14 横浜FC(J2) 11
15 横浜FC(J2) 11 16
16 横浜FC(J2) 11 20
17 横浜FC(J2) 11    
言わずもがなの「キング・カズ」。アジア杯初優勝、Jリーグ開幕、W杯初出場と変革期を迎えた1990年代の日本サッカーをリードしてきたプレーヤーです。
ブラジル仕込みのフェイントを織り交ぜたドリブルや高い決定力といった技術はもとより、ストイックに自己実現に向かう姿勢や逆境に強いメンタリティも特徴です。
ゴールパフォーマンスの「カズダンス」、印象深い言動、こだわりの強いファッション。プレー以外でも人目を引くそのスター性は日本随一といえます。

カズこと三浦知良は静岡市に生まれ、兄・泰年の影響を受けてサッカーに打ち込みます。小学生の時に叔父が監督を務める城内FCへ入団し、中学卒業まで過ごします。当時は身長が低く痩せていたため特別目立つ存在ではありませんでした。
兄が在校する強豪静岡学園に入学しますが、プロ選手になることを志し1学年途中で中退、単身ブラジルへ渡ります。当時15歳だったため、ジュヴェントスのジュニアユースに所属します。ポルトガル語の辞書を常に携帯して積極的に同僚とコミュニケーションを図るカズでしたが、ポルトガル語のジャポネスには「日本人」という意味のほかに、ブラジルでの俗語として「サッカーが下手な、サッカーを知らない」という意味もありました。そのため嘲笑の的となり、パスも回ってこない状況が続いたものの、この困難を克服し、フィジカルも大きく成長を遂げました。
18歳の時に名門サントスとプロ契約しますが、わずか2試合の出場にとどまります。その後パルメイラスでは助っ人として帰国しキリン杯にも出場しました。その後マツバラ、CRBを経て、キンセ・デ・ジャウーに入団、1988年サンパウロ州選手権では全試合レギュラーとして活躍、コリンチャンス戦の前半42分に日本人初ゴールを記録しました。その後コリチーバへレンタル移籍し、10月にはジーコ擁するフラメンゴを下すなどパラナ州選手権優勝を経験しました。
4年ぶりにサントスへ復帰しますが、日本にプロリーグが誕生することが現実味を帯びてきたこともあり、そして何より日本代表としてW杯に出場するという目標もあったため、1990年8月に読売クラブ(後のV川崎、現東京V)と契約を交わします。しかし監督との確執もあり周囲とかみ合わず出番に恵まれない日々を送ります。しかしその後就任したサントス時代の恩師ペペ監督のもとで徐々にチームにフィットし、キレのあるドリブルと正確なキックで周囲を圧倒、最後となった日本リーグで優勝してMVPとベストイレブンに選ばれました。
その後、V川崎と故郷に新設され兄も在籍する清水との間で自身の獲得を巡り争奪戦が繰り広げられますが、読売時代からの愛着もありV川崎に入団します。そしてJリーグ開幕に先立って行われたナビスコ杯では10試合で10ゴールを挙げ初代優勝に輝き、得点王とMVPを獲得しました。1993年5月15日、横浜M(現横浜FM)とのJリーグ開幕戦にて日本でのプロリーグデビューを果たします。記念すべきこの試合は落とし、1stステージも日本リーグ時代に弱小だった鹿島に優勝を奪われますが、2ndステージでは6試合連続ゴールや浦和戦でのハットトリックなどステージ制覇に大きく貢献します。その後の1stステージ覇者鹿島とのチャンピオンシップ第1戦でゴールを挙げると、第2戦でもジーコの唾吐きに動揺せずPKを落ち着いて成功させ、年間優勝を果たしてJリーグ初代MVPに輝きました。読売からV川崎になるまでの日本リーグ後期、Jリーグ黎明期でのクラブ黄金期を支えました。
94シーズンに16ゴールを挙げた後にジェノアへレンタル移籍、9月4日ミランとの開幕戦にて日本人初のセリエAデビューを果たしますが、前半28分にバレージとヘディングで競った際、彼の後頭部が顔面に直撃、前半こそプレーしたものの、後半に姿はありませんでした。その後12月4日サンプドリアとのジェノバダービーでは前半13分に初ゴールを記録しました。レンタル期間を終えて日本に復帰し2ndステージから合流、2度のハットトリックなど23ゴールを挙げました。2年目も市原(現千葉)相手のハットトリックなど23ゴールで得点王に輝きました。
その後C・ザグレブ(現D・ザグレブ)に移籍、退団したヴィドゥカやマリッチに代わる存在として期待を集め、1999年2月17日のムラードスト127戦にてクロアチアデビューします。しかしこの試合でPKを失敗、その後監督交代が相次ぎ波に乗れず、ノーゴールに終わりました。
99シーズンに京都へ移籍。2年目は第12節神戸戦でのJリーグ初の100ゴールなど通算17ゴールを挙げて役割を果たしました。続く神戸ではゴール数は減少しましたが、加入初年度よりキャプテンを任され、発展途上のクラブにプロ精神を植え付けました。
05シーズン途中に横浜FCに加入しますが、クラブW杯に出場するシドニーFCへレンタル移籍します。共にJリーグを盛り上げたリトバルスキ監督の下、マンチェスター・Uで活躍したFWヨークらと共にプレーし、オーストラリアでのリーグ戦ではゲストプレーヤーとして登録されてリーグ4試合に出場、アデレード戦で2ゴールを挙げました。12月には前身となるインターコンティネンタル杯を含めクラブ世界一を決める大会に日本人として初めて出場し、2試合戦いました。
06シーズン、高木監督や城といったかつての代表の僚友と共にJ1昇格に貢献します。1年で降格が決定したのは残念でしたが、最終節浦和戦では決勝点をアシストして面目を保ちました。その後も若手がそろうチームをけん引し、10シーズンからキャプテンを務めます。翌シーズンは30試合に出場しますがネットを揺らせず、Jリーグ連続ゴール記録が途絶えました。

「日本をW杯に出場させるため」、1990年9月26日に帰化したラモス瑠偉と共に日本代表デビュー、以降絶対的なエースとして君臨します。2年後のアジア杯イラン戦で決勝点を挙げるなどMVPに選ばれ日本の初優勝に貢献し、アジア年間最優秀選手に選ばれました。
1994年W杯予選では12試合に出場。バングラデシュ戦で4ゴールを挙げると、韓国から9年ぶりに勝利をもぎ取る決勝弾など13ゴールを挙げますが、「ドーハの悲劇」によりW杯初出場は夢と消えました。しかしこの活躍によりAFCが発行する広報誌の表紙に「KING KAZU」と紹介されたことで、日本国内でもこの称号が定着するようになります。
1995年、サウジアラビアで行われたインターコンティネンタル選手権(現コンフェデ杯)では2試合プレーし、オルテガやバティなどに5ゴールを決められ大敗したアルゼンチン戦で一矢報いました。翌年アジア杯では4試合で1ゴールと沈黙して連覇はなりませんでしたが、中田英の代表デビュー戦となった韓国戦で同点弾を決め、1998年W杯予選では本拠マカオ戦でダブルハットトリック、本拠ウズベキスタン戦でも4ゴールを挙げました。
しかしその後は1点も決められず、スイスでの直前合宿で北澤、市川と共に本大会メンバー落選が発表され失意の帰国となりました。その後の記者会見には金髪で臨み世間に強いインパクトを与え、W杯での惨敗もあり大きな議論を呼びました。
クロアチアへ活躍の場を移したこともあって一度離れますが、京都での活躍が評価されて2000年に代表復帰します。しかし地元開催となった2年後のW杯出場はなりませんでした。

余談
・日本代表のユニフォームが赤色だった1991年のキリン杯(国際Cマッチ)では、ビスマルク擁するヴァスコ相手に1ゴール、リネカー擁するトッテナムに2ゴールを挙げて初優勝に貢献。その後1992年のユヴェントス戦でも1ゴールを挙げ、トラパットーニ監督から高い評価を受けました。また、背番号も代名詞である「11」ではなく「20」でした。
・2011年3月の地震によるチャリティマッチでは、途中出場からゴールを決めてカズダンスを披露し、特大の存在感を示しました。
・2012年には、フットサル日本代表としてW杯に出場しました。
代表記録

2011年11月11日:新規アップ 2017年2月20日更新