フレデリック・カヌーテ(Frederic KANOUTE)
フルネーム フレデリック・カヌーテ
国籍 マリ
出身地
生年月日 1977・9・2
身長 192cm
体重 82kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 2004・1・15
アルジェリア戦
代表背番号 19
W杯メンバー  
ニックネーム  
個人タイトル 07アフリカ年間最優秀選手
チームタイトル 05/06,06/07UEFAカップ
06/07,09/10コパ・デル・レイ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
97/98 リヨン(フランス) 20 18
98/99 リヨン(フランス) 20
99/00 リヨン(フランス) 20 13
99/00 ウェストハム(イングランド)
00/01 ウェストハム(イングランド) 14 32 11
01/02 ウェストハム(イングランド) 14 27 11
02/03 ウェストハム(イングランド) 14 17
03/04 トッテナム(イングランド) 9 27
04/05 トッテナム(イングランド) 9 32
05/06 トッテナム(イングランド) 9
05/06 セビージャ(スペイン) 12 32
06/07 セビージャ(スペイン) 12 32 21
07/08 セビージャ(スペイン) 12 30 16
08/09 セビージャ(スペイン) 12 34 18
09/10 セビージャ(スペイン) 12 27 12
10/11 セビージャ(スペイン) 12 28 12
11/12 セビージャ(スペイン) 12 26
12 北京国安(中国) 10
13 北京国安(中国) 24
長身と非凡な技術によるポストプレーに動物的な敏捷性もあり、決定力もあるマリ史上屈指のFW。チームプレーに徹し、アシストも率先してこなすのも特筆すべき点です。

両親がマリからフランスへ移住し、リヨンの貧民地区で生まれ育ちます。学業が苦手だったため一日中サッカーをしていました。やがて地元リヨンの下部組織に入り、97/98シーズンにトップデビューします。しかしベテランFWカヴェリアの存在や、バルセロナから加入してきたアンデルソンが得点王を挙げる活躍をしていたため、居場所はありませんでした。
その後ウェストハムに移籍して才能が開花します。FWディ・カニオ、MFキャリック、J・コールらのアシストを受け、3年目はリーグでアーセナルやマンチェスター・Uから、FA杯ではチェルシーと強豪から相次いでゴールを奪いました。
03/04シーズンに同じロンドンをホームとするトッテナムに移籍し、ロビー・キーンやデフォーとプレー。チェルシーとのアウェー戦で2ゴールを挙げると、FA杯C・パレス戦でハットトリックを達成。2年目はアストン・ヴィラ戦での2ゴールなどUEFA杯出場権獲得に貢献しました。
05/06シーズンにベルバトフが加入してきたことにより移籍を決意し、約9億7千万でセビージャに加入。8月28日ラシン戦でリーガにデビューすると、ファンデ・ラモス監督が掲げるカウンター戦術に機能します。チームの得点王こそサビオラに譲ったものの、FW陣では最多出場を果たしました。UEFA杯でも10試合で6ゴールを挙げ、決勝ミドルスブラ戦でもダメ押しゴールを決めて、クラブ初の欧州タイトル獲得に大きく貢献しました。
2年目の開幕前、UEFAスーパー杯でバルサを破るゴールを挙げ、リーグでも右サイドのD・アウヴェス、J・ナバスらのクロスもあり開幕戦からゴールを量産、得点王争いを演じてチームを優勝争いに導きます。国内カップでも決勝など5試合4ゴールで優勝し、UEFA杯でも10試合4ゴールで連覇を達成するなどクラブを強豪に押し上げました。これによりエッシェンやドログバといったチェルシー勢を抑えて2007年のアフリカ年間最優秀選手に選ばれました。
08/09シーズンは、ホームのバジャドリー戦でハットトリックを達成するなどラウールと並ぶ18ゴールをマークし、チャンピオンズ・リーグ出場権を獲得。また、元クロアチア代表シュケルの持つクラブ外国人最多ゴール記録を更新しました。翌シーズンはコンディション調整に苦心しながらも12ゴールと及第点の成績を収めます。トップ下ラキティッチの加入やCFネグレドの爆発もあり、彼らとの共存またはターンオーバー要員として存在感を示し、10/11シーズンは国内で12ゴール、ヨーロッパリーグでも7試合で5ゴールを挙げました。
11/12シーズンはベンチスタートが多く4ゴールに終わり、中国でキャリアを終えました。

U−21ではフランス代表から召集を受けましたが、父親の祖国であるマリに国籍を変更。2004年アフリカ選手権では5試合4ゴールと見事な結果を残しました。
2006年W杯予選は6試合3ゴールと役割を果たしますが敗退しました。2008年アフリカ選手権でも初戦ベナン戦でゴールを挙げるものの2連敗してグループリーグで敗退。2年後も自身の2ゴールも実らずグループリーグ敗退となり、大会後に引退しました。
2010年W杯予選で復帰して10試合7ゴールと結果を出すものの、出場権を逸しました。
代表記録 39試合23得点

余談
・熱心なイスラム教徒で、06/07シーズンの胸スポンサーがギャンブル事業を展開するブックメーカーだと知ると、戒律に反するとしてユニフォームの着用を拒否しましたが、その後ロゴの一部を隠したまま試合に出場しました。
※:リヨン(フランス)
2007年1月14日:新規アップ 2014年7月19日更新