加茂 周(Shu KAMO)
フルネーム 加茂 周(カモ シュウ)
国籍 日本  
出身地 兵庫県芦屋市
生年月日 1939・10・29
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1967〜   ヤンマーディーゼルコーチ
1974〜89 日産自動車
1991〜94 全日空→全日空佐藤工業→横浜フリューゲルス
1994〜97 日本代表
1999〜99 京都サンガ
2001〜02 尚美学園大
2003〜03 大阪学院大
2007〜   関西学院大
獲得タイトル 68,70,83,85,88,93天皇杯
71,88/89日本サッカーリーグ
88/89JSLカップ
95AFCダイナスティカップ
現役時代はFWとしてヤンマー(現C大阪)に所属、日本代表経験はありません。実弟は全国展開しているサッカーショップを経営しています。

長期的な視野でチームを掌握し、選手獲得や育成、環境整備などといった管理能力があり、ピッチの外でも手腕を発揮。フォーメーションは4−4−2ボックスや3−5−2を使用します。
欧州を席巻したサッキ監督が提唱したゾーンプレスを取り入れたことで知られていますが、この戦術は全日空(後の横浜F)で指揮を執るようになってからのことです。
中盤をコンパクトに保ち、ボールを保持する相手を複数の選手で囲ってプレスをかけ、パスコースを限定します。そしてDFラインをフラットにして中盤まで押し上げ、最終ラインの後ろをオフサイドエリアにして相手を狭いスペースに押し込み、ボールを奪った後即座に攻撃に転じます。
この戦術は、高度な戦術眼や技術、体力など多くを求めるものであり、日本の選手では実践が難しいとされていました。それでも信念を貫き代表での限られた時間で試行錯誤しますが、採用する3バックでは中央の選手がリベロのような動きになりラインをフラットにできず、中盤のプレスもおろそかになりました。さらに藤田や前園といった攻撃的MFがプレスとゲームメークのどちらを優先させるかや、プレスをかける範囲が明確にされないなど個々の動きと組織のバランスがとれておらず、機能していたとはいえませんでした。

わずか3年余りの現役生活を退き、コーチに就任して2度の天皇杯制覇を達成。1969年にライセンスを取得し、1974年に国内初のプロ監督として日産(現横浜FM)と契約しました。
当時県リーグの所属だったチームを率いて1978年に初のJSL1部昇格を果たしますが、1980年に降格します。しかしFW金田の加入もあってすぐに1部に復帰すると、木村、マリーニョ、水沼、柱谷幸と特に攻撃面で戦力が整います。また、水沼加入の際それまでWGだった木村を司令塔にコンバートして優れたパスセンスを引き出すことに成功しました。
かつて自身が所属していたヤンマーとの1983年の天皇杯決勝では、柱谷幸と金田のゴールにより優勝。この大会後に自身が育成に携わった釜本が引退を表明しました。1985年天皇杯も名門マツダ(前東洋工業、現広島)を5−0で下すなど決勝に進出し、フジタ(後の平塚、現湘南)相手に木村、柱谷幸がゴールを決めて2度目の優勝を果たしました。
その後、ブラジル代表オスカーや柱谷哲の加入により守備が安定し、88/89シーズンは、リーグ、カップ、天皇杯の三冠を達成します。その後オスカーに後を託して勇退しました。
1991年から全日空へ。DF岩井、大嶽直、MF山口素、反町、FW前田治と人材がそろい、Jリーグ開幕後はGK森、MF前園といった若手を積極的に起用します。リーグでは下位にとどまりましたが、ナビスコ杯で3位、天皇杯で自身6度目の制覇とカップ戦で結果を残しました。
日産黄金期から待望論がありましたが、前任者ファルカンの下で言葉の壁によるコミュニケーション不足を解消するための措置として、1994年に日本代表に就任します。オフト時代のラモス、都並、堀池などを再召集し、インターコンティネンタル選手権で戦術のキーマンである山口素をデビューさせますが、ナイジェリアに0−3、アルゼンチンに1−5と大敗しました。これがきっかけで相馬直、名波、藤田、森島寛などを召集して徐々に世代交代を図りました。
1995年ダイナスティ杯を制した後に欧州遠征を行います。聖地ウェンブリーでのイングランド戦ではDF井原のヘディングで同点に追い付きましたが、終了間際に柱谷哲がエリア内で手でシュートを防いで退場となり、プラットのPKで敗れました。続くブラジル戦ではR・カルロスに加え、自身退団後に横浜Fに加入したジーニョの2ゴールで完敗しました。続くスウェーデン戦ではK・アンデションに2点を献上しますが、黒崎のゴールで追い付きドローとなりました。
サウジアラビアに2連勝した後、V川崎(現東京V)を2ndステージ優勝に導いたネルシーニョ監督の代表監督就任と、自身の横浜F復帰が決まりかけていました。しかし11月22日にサッカー協会が翻意して自身と再契約し(ネルシーニョ監督による腐ったミカン発言)、西野監督率いる五輪代表との連携不足が取りざたされるなどピッチ外で厳しい局面がありました。
1996年アジア杯では五輪で活躍した前園を2列目に据え、名波をボランチに下げます。ウズベキスタン戦では両者がゴールを挙げますが、フル代表を離れていた前園と周囲との連係不足は改善されませんでした。グループリーグは3連勝しますが、準々決勝でプレスを警戒したクウェートのマチャラ監督がロングボール主体の攻撃を展開、対処できず0−2で敗れました。
1998年W杯一次予選、中田英のフル代表デビューを経て最終予選に臨みます。直前となりセントラルからホーム・アンド・アウェー方式に変更となりました。初戦こそカズの4ゴールなどで勝利しましたが、2戦目のUAE戦はドローで終わりました。3戦目の韓国戦は山口のループシュートで先制、73分に帰化して代表デビューしたFW呂比須を下げてDF秋田を投入しますが、終了間際に逆転されます。アウェーのカザフスタン戦でも、秋田のヘディングで先制した後名波を下げて本田泰を投入しますが、終了間際に追い付かれました。終盤に守備を固め逃げ切りを図りましたが2試合連続で失態を演じ、試合終了後に当地で更迭されました。
99シーズン途中に京都を率いた後は関西の大学で総監督を歴任し、解説者や講演活動など幅広く活動しています。
2011年12月24日:新規アップ 2012年7月6日更新

83日産自動車(天皇杯優勝)
  柱谷幸一  
金田喜稔 水沼貴史
マリーニョ 木村和司
  清水秀彦  
田中真二 杉山誠
越田剛史 池田司信
  坂田六雄  

85日産自動車(天皇杯優勝)
木村浩吉柱谷幸一
 木村和司 
マリーニョ水沼貴史
 清水秀彦 
田中真二池田司信
越田剛史杉山誠
 松永成立 

88日産自動車(三冠達成)
ロペス(水沼) 長谷川健太
  柱谷幸一  
フジネイ 木村和司
  柱谷哲二  
平川弘 田中真二
佐野達 オスカー
  松永成立  

93横浜フリューゲルス(天皇杯優勝)
アンドロ 前田治
エドゥー 前園真聖
高田昌明 山口素弘
モネール 薩川了洋
渡辺一平 岩井厚裕
  森敦彦  

95日本代表(IC選手権出場)
  山口敏弘  
  礒貝洋光  
カズ 福田正博
柱谷哲二 山口素弘
都並敏史 堀池巧
井原正巳 名塚善寛
  松永成立  

96日本代表(アジア杯ベスト8)
カズ 高木琢也
前園真聖 森島寛晃
名波浩 山口素弘
相馬直樹 柳本啓成
井原正巳 小村徳男
  下川健一  

99京都サンガ
黒崎比差支 森岡茂(カズ)
  シーラス  
野口裕司 鈴木健仁
シジクレイ 遠藤保仁
戸倉健一郎 大嶽直人
  佐藤尽  
  松永成立