カカ(KAKA)
フルネーム リカルド・イゼクソン・サントス・レイチ
国籍 ブラジル
出身地 ブラジリア
生年月日 1982・4・22
身長 184cm
体重 76kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 2002・1・31
ボリビア戦
代表背番号 8 10 23
W杯メンバー 02年 06年
ニックネーム  
個人タイトル 02ボーラ・ジ・オーロ(プラカール誌)
02ボーラ・ジ・プレッタ(プラカール誌)
04,07セリエA年間最優秀選手
04,06,07セリエA年間最優秀外国人選手
04/05UEFA最優秀MF
06〜08FIFProベストイレブン
06〜08UEFAベストイレブン
06/07UEFA年間最優秀選手
06/07UEFAチャンピオンズ・リーグ得点王(10得点)
06/07UEFA最優秀FW
07バロンドール(フランスフットボール誌)
07世界年間最優秀選手(FIFA)
07世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)
07世界年間最優秀選手(FIFPro)
07FIFAクラブワールドカップ最優秀選手
08FIFAベストイレブン
チームタイトル 99FIFAU−17世界選手権
01リオ・サンパウロ州選手権
02サンパウロ州選手権
02FIFAワールドカップ
03/04セリエA
05,09FIFAコンフェデレーションズ・カップ
06/07UEFAチャンピオンズ・リーグ
07FIFAクラブワールドカップ
10/11コパ・デル・レイ
11/12リーガ・エスパニョーラ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
01 サンパウロ 8 27 12
02 サンパウロ 8 22
03 サンパウロ 8
03/04 ミラン(イタリア) 22 30 10
04/05 ミラン(イタリア) 22 36
05/06 ミラン(イタリア) 22 35 14
06/07 ミラン(イタリア) 22 31
07/08 ミラン(イタリア) 22 30 15
08/09 ミラン(イタリア) 22 31 16
09/10 レアル・マドリー(スペイン) 8 25
10/11 レアル・マドリー(スペイン) 8 14
11/12 レアル・マドリー(スペイン) 8 27
12/13 レアル・マドリー(スペイン) 8 19
13/14 ミラン(イタリア) 22 30
14 サンパウロ 8 19
15 オーランド・シティ(アメリカ) 10 28
16 オーランド・シティ(アメリカ) 10 24
17 オーランド・シティ(アメリカ) 10 23
ゲームの流れを読む戦術眼とスルーパスで決定機を作り、高速ドリブルで敵陣に攻め込む攻撃的MF。トップスピードでも足元の精度は落ちず、類まれな決定力を誇ります。

首都ブラジリア生まれ。ロマーリオやロナウド、アドリアーノなどのように貧困な家庭から這い上がってきたタイプではなく比較的裕福な家庭で育ち、少年時代はテニスもしていました。
7歳のころサンパウロの下部組織に入り、フットサルチームでもプレーしていましたが、12歳でサッカーに専念します。当初はスタミナ不足や線の細さが課題となっていましたが、1年半にも及ぶ特別トレーニングで成長します。J・バティスタと共に各年代で結果を残しますが、2000年9月、15歳の時にスプリングボードからプールに飛び込んだ際脊椎を負傷し、リハビリのためにサッカーから離れました。しかし彼曰く「神の御加護で」奇跡的に回復、この出来事をきっかけに敬虔なクリスチャンとなり、プロ入りから給料を教会に寄付するようになっています。
2001年3月1日、リオ・サンパウロ州大会決勝第2戦ボタフォゴ戦にてトップチームデビュー。後半から出場して2得点を挙げ、チームを初優勝へと導きます。そして翌シーズンにはレギュラーとなります。ライーの再来と評される質の高いプレーを見せると同時に学業とも両立させ、プロとして初めてもらった給料は兄弟の大学進学のための費用に充てました。
ブラジルで活躍した後、役員を務めるレオナルドの仲介でミランへ引き抜かれます。当初はレギュラー格ではありませんでしたが、03/04シーズンの9月1日開幕アンコーナ戦でセリエAデビューすると、第5節ミラノダービーで初得点。リヴァウドやルイ・コスタといったワールドクラスをベンチに追いやりました。そしてリーグ優勝の最大の貢献者となり、イタリア選手協会に選出される2004年最優秀選手賞に選ばれました。1試合平均7.69のレーティングでこのシーズンを終え、バロンドール受賞者であるネドヴェドの7.30を上回りました。また、マラドーナ (6.93)、ファルカン (6.79)、ジーコ (6.74)、プラティニ (6.48)、ソクラテス (5.83) といった、セリエAで活躍した多くの名手のレーティングをも上回っていたのです。チャンピオンズ・リーグでも初出場ながら10試合4得点。特に準々決勝デポルティボ戦では結果的には敗れはしますが2点を取り、大舞台での勝負強さを見せました。
04/05シーズンのチャンピオンズ・リーグでは13試合に出場。グループリーグのシャフタール戦で2得点を挙げるものの、その後はネットを揺らせず決勝ではリヴァプールに大逆転劇を許しました。翌シーズンの同大会では12試合5得点の活躍を見せますが準決勝で敗退しました。国内リーグではホームのキエーヴォ戦でミラン入団後初のハットトリックを決めました。
06/07シーズンのチャンピオンズ・リーグではアンデルレヒト戦でハットトリックを達成し、準決勝マンチェスター・U戦で2試合3得点など、13試合10得点で得点王(ブラジル人としては99/00シーズンにリヴァウドがR・マドリーのラウール、ポルトのジャルデウ、D・キエフのレブロフと共になって以来)となり、チームを優勝に導きます。この活躍により、バロンドールやFIFA世界最優秀選手賞などあらゆる個人タイトルを総なめにしました。
2007年12月、日本で開催されたクラブW杯では1得点3アシストの活躍で最優秀選手になると同時にチームを欧州クラブ初の世界一に導きました。
07/08シーズン後半はレッジーナ戦で2度目のハットトリックを決め、ミラノダービーでも1得点1アシスト、最終節ウディネーゼ戦では3アシストと、フィオレンティーナとチャンピオンズ・リーグ出場権を争いましたが5位に終わり、UEFA杯に回りました。翌シーズンの同大会では満足な結果が出せませんでしたが、国内リーグではキャリア最多の16点を挙げました。
09/10シーズン、同時入団のC・ロナウド、01/02シーズンのジダンに次ぐ史上3番目となる高額の移籍金でR・マドリーと6年契約を結びます。8月29日デポルティボ戦でリーガにデビューし、9月12日エスパニョール戦で2アシスト、9月は2節連続得点を決めますが、25試合8得点と物足りない数字に終わりました。チャンピオンズ・リーグでも7試合に出場しましたが、強豪ミランや相性の悪いリヨンに対して結果を残せず、ベスト16で敗退しました。
2年目の開幕前に左ヒザの手術を受け、2011年1月3日ヘタフェ戦で戻り14試合で7得点を挙げます。新加入エジルの存在もあり退団が確実視されますが、残留を希望して3年目に臨みます。フル稼働とはならなかったもののリーグ戦では27試合5得点、チャンピオンズ・リーグでは準々決勝アポエルとの両試合で1得点1アシストを挙げてベスト4に進みました。
4年目は自己最低の成績に終わり、ミランに復帰。チームは財政難でしたが、自身は公式戦300試合出場100得点と節目の成績を残しました。しかし1年で再びミラノを去りオーランドに移籍、同リーグ開幕前のシーズンを古巣サンパウロで過ごしました。
2015年3月8日NY戦でのMLSデビューを得点で飾り、3試合連続の得点とアシスト、2年目も9得点9アシスト、3年目も6得点4アシストするも2ケタ順位にとどまり引退しました。

2001年Wユースでは僚友J・バティスタやアドリアーノらと共に5試合出場しますが、ベスト8で姿を消しました。翌年1月31日ボリビア戦でフル代表デビューし、2戦目となるアイスランド戦で初得点を記録。W杯では最年少でメンバーに入ってグループリーグのコスタリカ戦に出場し、母国5度目の優勝に立ち会いました。翌年のゴールド杯も主力として3点を取りました。
2006年W杯南米予選第1節、アウェーのコロンビア戦では決勝点を挙げるなどロナウヂーニョとの中盤を確立し、15試合で5得点を挙げて本大会出場権を獲得。2005年コンフェデ杯では5試合出場、アルゼンチンとの決勝で得点を奪い優勝の原動力となりました。
W杯本大会では圧倒的な優勝候補に挙げられながらベスト8に終わりましたが、自身は5試合出場、グループリーグのクロアチア戦で大会初得点を挙げました。
2009年コンフェデ杯は5試合戦いエジプト戦で2点取りますが、アメリカの前に連覇はなりませんでした。翌年のW杯予選では11試合5得点で3大会連続の出場権を獲得。本戦ではコートジボワール戦で退場します。オランダ戦で戻るも敗れて再びベスト8に終わりました。
代表記録 91試合28得点

余談
・幼少時に弟が本名のリカルドを発音出来ず、「カカ」と呼んだのが定着しています。
・ミランでの背番号22は自らの誕生日が由来です。
2011年4月16日:新規アップ 2017年12月18日更新