香川 真司(Shinji KAGAWA)
フルネーム 香川 真司(カガワ シンジ)
国籍 日本
出身地 兵庫県神戸市
生年月日 1989・3・17
身長 173cm
体重 63kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK
キャプテン経験  
代表デビュー 2008・5・24
コートジボワール戦
代表背番号 10
W杯メンバー 14年
ニックネーム シンジ
個人タイトル 12アジア年間国際最優秀選手賞(AFC)
チームタイトル 10/11,11/12ブンデスリーガ
11AFCアジアカップ
11/12,16/17DFBカップ
12/13プレミアリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
06 セレッソ大阪 29
07 セレッソ大阪(J2) 26 35
08 セレッソ大阪(J2) 26 35 16
09 セレッソ大阪(J2) 8 44 27
10 セレッソ大阪 8 11
10/11 ドルトムント(ドイツ) 23 18
11/12 ドルトムント(ドイツ) 23 31 13
12/13 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 26 20
13/14 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 26 18
14/15 ドルトムント(ドイツ) 7 28
15/16 ドルトムント(ドイツ) 23 29
16/17 ドルトムント(ドイツ) 23 21
17/18 ドルトムント(ドイツ) 23    
元来は豊富な運動量をベースに献身的な動きを見せるボランチですが、チーム事情から攻撃的MFとして開眼。高度な足技とスピードを兼ね備え、緩急自在のドリブルやオフ・ザ・ボールで果敢に前線へ飛び出し、フィニッシュへ持ち込みます。

小学1年からマリノFCでサッカーを始め、小学5年で神戸NKサッカークラブへ移ります。その後コーチやチームメイトのつてでFCみやぎバルセロナジュニアユースに入団しました。
ここで攻撃センスを身につけ、高校1年時ではクラブユースの全国大会でベスト8に進出します。2年の終わりにC大阪のオファーを受け、3年時に飛び級での入団を果たしました。
2007年4月7日鳥栖戦にてJリーグデビューを果たします。チームがJ2に降格したばかりであり、FW大久保ら主力の退団や、森島寛が原因不明の首痛に悩み戦列を離れたこともあって若手中心のスカッドになったため、多くのチャンスを得ることになります。
5月23日水戸戦で初得点を挙げると、シーズン途中に97シーズン以来の復帰となったクルピ監督に才能を認められ出場機会を確保、通算5得点10アシストを記録して実力の片りんを見せます。翌シーズンにはゆるぎない中盤の柱となり、16得点10アシストを記録しますが、チームは惜しくも4位に終わり、入れ替え戦にも届きませんでした。
09シーズン、引退した森島寛の背番号8を受け継ぎます。5月17日水戸戦でハットトリックを達成するなど27得点を挙げて得点王に輝くと共に、20得点を挙げた乾とのコンビネーションで他チームを圧倒し、4年ぶりのJ1復帰に多大なる貢献を果たしました。
10シーズンも11試合で7得点を挙げ、2010年W杯前にドルトムントからオファーが届き、終了後に移籍します。そして本大会メンバー落選の悔しさを晴らすかのようにヨーロッパリーグのカラバグ戦で2得点を挙げ、8月22日レヴァークーゼン戦で先発しリーグデビューします。長谷部擁するヴォルフスブルクから1点、内田擁するシャルケとのルールダービーでの2点など、熱狂的なサポーターに驚きと歓びをもたらします。アジア杯で負傷して離脱するものの、前半戦を17試合8得点で終え、9年ぶりとなるリーグ制覇の立役者となりました。
2年目は、チャンピオンズ・リーグこそ趨勢が決まった後のアーセナル戦が初得点と喜べない状況でした。しかし国内リーグでは13得点を挙げ、高原が06/07シーズンに作った欧州主要リーグの日本人最多記録の11得点を塗り替えます。カップ戦も5試合に出場し、バイエルンとの決勝など3得点を決めてクラブ初の2冠獲得に大きく貢献しました。
そして12/13シーズンに日本人初のマンチェスター・U入団を決めます。8月15日エヴァートン戦で先発してプレミアデビューし、フルハム戦で初得点を見せます。その後トッテナム戦やリヴァプール戦で得点に絡みますが、ケガもあり周囲との連係に時間を要しました。戦列復帰後は吉田擁するサウサンプトン戦で味方を演出すると、ノーリッジ戦でハットトリックを決め、最終節で先制点を挙げて自身3季連続となるリーグ優勝を達成しました。しかし自身の獲得を熱望したファーガソン監督が勇退すると、後任のモイーズ監督からは構想外となり、若いヤヌザイの台頭もあって出場機会が減少、シーズン無得点と屈辱的な結果に終わりました。
14/15シーズンも開幕から国内リーグでプレーできず、ドルトムントに復帰。初戦で点を取ったものの、19試合連続無得点と苦しみました。クロップ監督の退任が発表された後は計3得点2アシストと発奮してチームをヨーロッパリーグ圏内に引き上げました。翌シーズンはルールダービーなど9得点7アシストと盛り返しました。16/17シーズンは途中までベンチが多かったものの、ルールダービーでアシストしました。チャンピオンズ・リーグでは爆発事件に巻き込まれますが、直後のモナコ戦1stレグでは1得点1アシストでチームを鼓舞しました。

2007年のU-20W杯、2008年北京五輪ではそれぞれ無得点に終わりましたが、2008年5月24日コートジボワール戦にてフル代表デビューを果たします。
2010年W杯予選は3試合に出場するも決定的な仕事ができず、サポートメンバーにとどまりました。しかしザッケローニ監督のチームでは本田圭と共に攻撃のカギを握る存在となります。2011年アジア杯では5試合出場して準々決勝カタール戦で2得点を決めると、伊野波の得点をおぜん立てして逆転勝利に貢献。しかし続く韓国戦で骨折しました。
2014年W杯予選では11試合4得点と主力としての役割を果たし、コンフェデ杯ではグループリーグ3試合に出てイタリア戦で左足ボレーを決めました。W杯ではクラブでの不遇を引きずる形となり、コートジボワール戦で立て続けに相手右SBの侵攻を許して2点を献上しました。攻撃面でも積極性を欠き、ギリシャ戦ではスタメンから外れました。コロンビア戦では攻撃的に振舞いましたが、その分隙が生まれて大量失点し、失意のままに大会を終えました。
2015年アジア杯は未経験のインサイドハーフを務め、パレスチナ戦で岡崎の得点の起点となり、自身もヨルダン戦で追加点を取りました。準々決勝UAE戦では決定機を逃すと、PK戦では6人目のキッカーとして臨むものの失敗して大会が終わりました。
代表記録

2010年10月12日:新規アップ 2017年6月2日更新