フルネーム オスバルド・ジロルド・ジュニオール
国籍 ブラジル
出身地 サンパウロ
生年月日 1973・2・22
身長 167cm
体重 70kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK
キャプテン経験  
代表デビュー 1995・2・22
スロヴァキア戦
代表背番号 10 19
W杯メンバー 02年
ニックネーム  
個人タイトル 95ブラジル年間最優秀選手
チームタイトル 93コパ・リベルタドーレス
93FIFAインターコンティネンタル・カップ
94CONMEBOLカップ
96アトランタオリンピック銅メダル
97FIFAコンフェデレーションズ・カップ
00ブラジル全国選手権
00コパ・メルコスール
02FIFAワールドカップ
03/04イングランドリーグ・カップ
07タサ・グァナバラ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
91 イトゥーアーノ    
92 イトゥーアーノ    
93 サンパウロ 16
94 サンパウロ 19
95 サンパウロ
95/96 ミドルスブラ(イングランド) 25 21
96/97 ミドルスブラ(イングランド) 10 35 12
97/98 アトレティコ・マドリー(スペイン) 7 23
98/99 アトレティコ・マドリー(スペイン) 10 32
99/00 ミドルスブラ(イングランド) 23 28
00 ヴァスコ・ダ・ガマ 22
01 ヴァスコ・ダ・ガマ 15
02/03 ミドルスブラ(イングランド)  10 10
03/04 ミドルスブラ(イングランド) 10 31
04/05 セルティック(スコットランド) 7 14
05 パルメイラス 10 37 14
06 パルメイラス 10 26
07 フラメンゴ
07/08 シドニーFC(オーストラリア) 15
スピードとキレのあるドリブル突破でチャンスメークする攻撃的MF。線は細いものの闘争心旺盛で、大きな相手にも果敢に挑みます。

ジュベントスの下部組織で育ち、イトゥーアーノでプロのキャリアを始めます。1993年に名門サンパウロへ加入します。名将サンターナのもとで才能が開花し、T・セレーゾ、ライー、レオナルドなど現役セレソンと共にリベルタドーレスを勝ち取り、翌年のインターコンティネンタル杯ではバレージやパパン擁するミラン相手に勝利を収めたのです。翌1994年コンメボール杯も得点王になる活躍で優勝に貢献し、1995年の国内年間最優秀選手に選ばれました。
95/96シーズンに欧州へ渡り、移籍金約7億2千万円でミドルスブラへ。後にロナウドがバルセロナへ約10億円で移籍するまでの史上最高額でした。1995年11月4日リーズ戦でプレミアデビューしていきなりアシストを記録すると、2シーズン目には自身初の2ケタゴールを挙げます。FA杯とリーグ杯では決勝進出を果たすものの、リーグでは降格となりました。
97/98シーズンにA・マドリーへ加入すると、ヴィエリの得点王をおぜん立てします。翌98/99シーズンにはマドリードダービーで決勝ゴールを挙げるなど印象深いプレーを見せますが、再び降格の憂き目に遭ってミドルスブラに復帰しました。
2000年から在籍したヴァスコではもう一人のジュニーニョと共にタイトル獲得に貢献しました。02/03シーズンに三度ミドルスブラに入ります。初年度こそ手術のリハビリに多くの時間を費やしたものの、戦列復帰したエヴァートン戦でゴールを挙げて復活ののろしを上げると、翌シーズンはフル稼働し、リーグ杯を制してクラブに初タイトルをもたらしました。
04/05シーズンにはセルティックにフリーで移籍し、レンジャーズとのオールドファームダービーでリーグデビュー。しかしオニール監督の信頼を得られず1年の在籍にとどまり母国へ戻り、パルメイラスではFWエヂムンドともプレーしました。
2007年にフラメンゴに復帰するも出場機会を得られず、オーストラリアで引退しています。

1995年、自身の誕生日である2月22日のスロヴァキア戦でフル代表デビュー。翌年の五輪ではロナウド、リヴァウド、ベベトらと攻撃陣を組み、ハンガリー戦でゴールを挙げるなど6試合に出場。しかし日本に不覚を取るなど(マイアミの奇跡)精彩を欠き、銅メダルに終わりました。
1997年コンフェデ杯では4試合戦い優勝すると、2002年W杯予選は9試合戦って出場権を獲ます。本大会でも途中出場がメインでしたが5試合に出て2大会ぶりの優勝を果たしました。
代表記録 49試合5得点

余談
・パウリスタとは「サンパウロ州」のという意味であり、ヴァスコ時代の同僚であるジュニーニョ・ペルナンブカーノと区別するための名前です。
※:ジュニーニョ・パウリスタ(JUNINHO PAULISTA)
2007年11月15日:新規アップ 2012年9月2日更新