ジョアン・ピント(JOAO PINTO)
フルネーム ジョアン・ヴィエイラ・マヌエル・ピント
国籍 ポルトガル  
出身地 ポルト
生年月日 1971・8・19
身長 171cm
体重 62kg
利き足
ポジション FW(ST)
FK PK  
キャプテン経験 代表
代表デビュー 1991・10・12
ルクセンブルク戦
代表背番号
W杯メンバー 02年
ニックネーム  
個人タイトル 92,93,94ポルトガル年間最優秀選手
チームタイトル 89,91FIFAワールドユース
91/92,92/93,95/96,01/02ポルトガルカップ
93/94,01/02ポルトガルリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
88/89 ボアヴィスタ
89/90 ボアヴィスタ 11
89/90 アトレティコ・マドリーB(スペイン2部)
90/91 アトレティコ・マドリーB(スペイン3部)    
91/92 ボアビスタ 34
92/93 ベンフィカ 21
93/94 ベンフィカ 34 14
94/95 ベンフィカ 23
95/96 ベンフィカ 31 18
96/97 ベンフィカ 28
97/98 ベンフィカ 25
98/99 ベンフィカ 28
99/00 ベンフィカ 29
00/01 スポルティング 25 31
01/02 スポルティング 25 33
02/03 スポルティング 25 25
03/04 スポルティング 25
04/05 ボアヴィスタ 26
05/06 ボアヴィスタ 31
06/07 ブラガ 10 24
07/08 ブラガ 10
1.5列目から果敢に飛び出すシャドーストライカー。卓越したコントロールと豊富な運動量、機動力も備え、中盤と最前線をつなぐ役割も果たします。

ボアヴィスタでキャリアをプロのキャリアを始めます。A・マドリーの下部チームに移籍するもののホームシックにかかって1年で母国に戻りました。
復帰した91/92シーズン、ナイジェリア代表FWオウボキリとのコンビで8得点を挙げ、ベンフィカに引き抜かれます。スウェーデン代表MFシュヴァルツやロシア代表FWユランらとのプレーで国内カップを制すると、93/94シーズンはルイ・コスタの成長もあり初の2ケタゴールを見せてチームをリーグ優勝に導きます。また、3年連続で国内の年間最優秀選手になりました。
その後はエヂウソンやカニージャの存在で成績が下がりましたが、95/96シーズンはブラジル代表ヴァウドのアシストが大きく自己最高の18得点を挙げました。
97/98シーズンから5歳下のN・ゴメスを支える役割に徹しましたが、2000年欧州選手権の後にハインケス監督と決別してライバルのスポルティングへ加入。2年目はブラジル代表ジャルデウとのコンビでクラブの国内ダブルに貢献しました。その後はクアレスマやC・ロナウドとWGの台頭で出番を減らし、03/04シーズンを最後に退団しました。
04/05シーズンの開幕前はサウジアラビアのアル・ヒラルと契約寸前となりますが、最終的に古巣のボアヴィスタへ移籍し、2年目はチーム最多の9得点を挙げました。
06/07シーズンのブラガでは若きD・コスタにも影響を与えるなどリーグ4位となり、UEFA杯出場権を獲得。その後MLSクラブの練習に参加するも契約には至りませんでした。

1989年WユースにF・コウト、P・ソウザらと共に6試合に出場し、ナイジェリア戦で決勝点を挙げて優勝。2年後の同大会でも6試合に出てアイルランドとの初戦で先制点を見せます。フィーゴとルイ・コスタを加えたチームは2連覇を達成し、「黄金世代」と呼ばれるようになります。
1991年10月12日ルクセンブルク戦でフル代表デビューを果たします。1994年W杯予選は6試合に出てスイスから決勝点を挙げますが、本大会を逃しました。
1996年欧州選手権予選は6試合3得点で本戦に進み、クロアチアとの3戦目で得点を挙げました。その後はチェコ戦で警告を受けるなど1−0で敗れました。2年後W杯予選は9試合に出場してウクライナ戦など2得点を挙げますが、再び出場権を逸しました。
2000年欧州選手権予選は10試合戦い、スロヴァキアとアゼルバイジャンから1試合2得点、ホームのリヒテンシュタイン戦でのハットトリックなど計8得点と出色の働きを見せると、本大会でもイングランド戦でダイビングヘッドを決め、ベスト4進出を果たしました。
2002年W杯予選は8試合で3得点をマークして母国を4大会ぶりの本戦に導きますが、グループリーグの韓国戦で一発レッドとなり、チームも敗れてそのまま引退しました。
代表記録 81試合23得点

2014年10月22日:新規アップ