ジュリオ・バティスタ(Julio BAPTISTA)
フルネーム
国籍 ブラジル
出身地 サンパウロ
生年月日 1981・10・1
身長 182cm
体重 83kg
利き足
ポジション MF(CMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 2001・6・4
日本戦
代表背番号 18 19
W杯メンバー 10年
ニックネーム 野獣
個人タイトル  
チームタイトル 00,02サンパウロリーグ
00サンパウロカップ
04,07CONMEBOLコパ・アメリカ
05,09FIFAコンフェデレーションズ・カップ
07/08リーガ・エスパニョーラ
13,14ブラジル全国選手権
所属クラブおよび背番号 出場 得点
00 サンパウロ 14
01 サンパウロ 25
02 サンパウロ 21
03 サンパウロ 15
03/04 セビージャ(スペイン) 19 30 20
04/05 セビージャ(スペイン) 10 33 18
05/06 レアル・マドリー(スペイン) 8 32
06/07 アーセナル(イングランド) 9 24
07/08 レアル・マドリー(スペイン) 19 26
08/09 ローマ(イタリア) 19 27
09/10 ローマ(イタリア) 19 23
10/11 ローマ(イタリア) 19
10/11 マラガ(スペイン) 6 11
11/12 マラガ(スペイン) 19
12/13 マラガ(スペイン) 19 14
13 クルゼイロ 10 13
14 クルゼイロ 10 13
15 クルゼイロ 10
16 オーランド・シティ(アメリカ)    
ブラジル人としてはがっしりした体格で、その卓越したフィジカル能力で中盤を制圧します。守備的MFからSTまで多くのポジションで機能し、FKなど高い得点センスを誇ります。

少年時代に父親を亡くしたバティスタですが、生活は困窮しているわけではありませんでした。祖父母や教育熱心な母親の下で育ち、学業もこなしていました。
12歳の時に地元サンパウロの下部組織に入団、同期にカカがいました。2000年にトップチームに昇格すると15試合に出場。サンパウロ州のリーグとカップの2冠を獲得しました。
03/04シーズンにスペインのセビージャへ移籍します。当初は守備的MFでしたが、ホアキン・カパロス監督に攻撃力を買われ、STやトップ下など攻撃的な位置にコンバートされたのがキャリアの転機となります。2003年8月31日のリーガ開幕戦でデビューを飾ると、レジェスの左からのクロスに反応して初得点を挙げます。第24節ムルシア戦ではハットトリックを達成し、第33節ラシン戦での4得点を含む6試合9得点と大爆発します。このシーズンの得点王ロナウドの23得点に次ぐ20得点を挙げ、チームのUEFA杯出場権獲得に貢献しました。
04/05シーズンは、ポルトガルのナシオナルとのUEFA杯1回戦第1戦で1得点を決めて勝利に貢献します。リーグ第3節のレバンテ戦で大腿骨二頭筋を損傷しましたが、1ヶ月後のバレンシア戦でネットを揺らして復帰を自ら祝いました。R・マドリー戦に強く、ホームとアウェーの2試合でいずれも得点を挙げました。最終的に18得点でシーズンを終え、チームを再びUEFA杯出場に導きました。カップ戦はベスト16でしたが、8試合で5得点を挙げました。
05/06シーズンに約27億円でR・マドリーへ移籍します。ルシェンブルゴ監督、ロナウドやR・カルロスなど同胞がおり更なる活躍が期待されましたが、チャンピオンズ・リーグで負傷して1ヶ月戦線を離れました。復帰後はマドリードダービーやデポルティボ戦などチーム3番目の8得点を挙げましたが、セビージャ時代のような印象を残せませんでした。
シーズン終了後、セビージャでともにプレーしたレジェスと交換トレードでアーセナルへ。2006年9月9日ボロ戦でプレミアデビューしますが、ロシツキやフレブ、セスクなどの存在でレギュラー獲得はなりませんでした。それでもリーグ杯ではリヴァプール戦で1試合4得点を決めると、続くノースロンドンダービーでも2点と結果を残しました。
07/08シーズンにレンタルバックします。チャンピオンズ・リーグではラツィオから点を取り、アウェーのクラシコで得点を挙げ勝利に貢献したものの、絶対的な存在にはなれませんでした。
そしてローマへ完全移籍し、8月31日ナポリとの開幕戦でセリエAにデビュー。ローマダービーに加え、サンプドリア戦では双方の試合で2得点など9得点、チャンピオンズ・リーグでもボルドー戦で2点を取って決勝トーナメントに進みます。しかしラニエリ監督の構想に合わずベンチスタートが増え、10/11シーズン途中にスペインリーグに復帰します。
そして11試合9得点と息を吹き返し、V・ニステルローイ、ホアキン、カソルラと大型補強を見せた2年目は、30歳の誕生日に行われた本拠ヘタフェ戦でオーバーヘッドを決めました。
その後はケガで本領を発揮できず、10年ぶりに母国に帰還します。かつて仙台でプレーしたFWボルジェスと共に攻撃を担って13試合で5得点と手ごたえを得ると、2年目はサンパウロやサントスといった強敵から勝ち点を得る仕事を見せます。リベルタドーレスでも8試合2得点と、準々決勝で大会を制するサン・ロレンソに敗れるまでチームをけん引しました。
16シーズンにカカが在籍するオーランドへ移籍しています。

2001年Wユースで2試合戦いますが、準々決勝でガーナに敗れました。その後のコンフェデ杯メンバーに入り、6月4日のグループリーグ日本戦でフル代表デビュー。大会には2試合出場し、オーストラリアとの3位決定戦で敗れました。
2003年ゴールド杯で5試合、2004年コパ・アメリカ出1試合、優勝した2005年コンフェデ杯で2試合に出場するなど、着実にキャップ数を積みました。
予選を3試合戦った2006年W杯メンバーは落選しますが、ドゥンガ監督が就任した翌年のコパ・アメリカは決勝アルゼンチン戦の先制点など3得点で連覇に貢献しました。
2010年W杯予選は8試合に出場。チリやエクアドルといった強力なライバルから点を取って初出場を決めますが、本大会は1試合にとどまりました。
代表記録

※:ジュリオ・セザール・クレメント・ペレイラ・バティスタ
2006年10月24日:新規アップ 2016年3月25日更新