伊東 輝悦(Teruyoshi ITO)
フルネーム 伊東 輝悦(イトウ テルヨシ)
国籍 日本  
出身地 静岡県静岡市
生年月日 1974・8・31
身長 168cm
体重 72kg
利き足
ポジション MF(CMF)
FK PK FK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1997・6・8
クロアチア戦
代表背番号 7 8 14 24
W杯メンバー 98年
ニックネーム テル
個人タイトル 99Jリーグベストイレブン
07Jリーグフェアプレー個人賞
チームタイトル 96ナビスコカップ
99セカンドステージ
99/00アジアカップウィナーズ・カップ
01/02天皇杯
所属クラブおよび背番号 出場 得点
93 清水エスパルス
94 清水エスパルス
95 清水エスパルス 44
96 清水エスパルス 26
97 清水エスパルス 7 31
98 清水エスパルス 7 34
99 清水エスパルス 7 29
00 清水エスパルス 7 24
01 清水エスパルス 7 27
02 清水エスパルス 7 22
03 清水エスパルス 7 30
04 清水エスパルス 7 30
05 清水エスパルス 7 32
06 清水エスパルス 7 34
07 清水エスパルス 7 34
08 清水エスパルス 7 34
09 清水エスパルス 7 30
10 清水エスパルス 7 16
11 ヴァンフォーレ甲府 27 28
12 ヴァンフォーレ甲府(J2) 27 25
13 ヴァンフォーレ甲府 27
14 長野パルセイロ(J3) 30
15 長野パルセイロ(J3) 30
16 ブラウブリッツ秋田(J3) 25
17 アスルクラロ沼津(J3) 25    
18 アスルクラロ沼津(J3) 25    
19 アスルクラロ沼津(J3) 25    
豊富な運動量があり、的確なポジショニングと危機察知能力で相手の攻撃の目を摘み取った後、ドリブル突破や正確なパスで攻撃の起点になります。
切れ味が鋭く重心の低いドリブル突破はマラドーナにたとえられ、「テルドーナ」と称されます。

小学校1年の時、袖師サッカー少年団でサッカーを始めます。CBとしてプレーし、全日本少年サッカー大会を制しました。小学校3年から市内選抜の清水FCへ。ポジションもFWになり、ゴールを量産しました。6年時には全日本少年大会で得点王や優秀選手賞に選ばれる活躍を見せ、チームを優勝に導きました。中学時代からはMFでプレーし、第一回世界少年大会ではキャプテンとしてチームを率い得点王と優秀選手賞に選ばれます。そして3年時にも中学選手権を制するなど数々の栄冠を手にしました。高校でも2年時に国体優勝を果たしました。
高校卒業後、1993年に清水に入団。3年目の95シーズンから宮本監督に起用されるようになり、左MFとしてレギュラーの座につきました。11月8日のホームでの鹿島戦での3人抜きゴールは、「テルドーナ」と呼ばれる理由を顕著に表したプレーでした。
96シーズンは、アルディレス監督に局面を打開できる攻撃センスを買われてFWでプレーすることもありましたが、97シーズンより守備的MFでの起用が多くなりました。より守備的なサントスとペアを組んで機を見て攻め上がるプレーをして7ゴールを挙げました。98シーズンには優勝争いに絡むチームを牽引。そして99シーズンの2ndステージは優勝し、ベストイレブンにも選ばれましたが、この頃から前線に上がるプレーは少なくなりました。
チームが低迷期に入ると守備専業になり、J1残留に貢献します。05シーズン前半は振るいませんでしたが、第28節の静岡ダービーで、攻撃センスに優れたルーキーの枝村とコンビを組みます。残留争いの中でのルーキー起用という状況であり、経験の少ない彼をサポートしました。この試合を引き分け自らは太ももを負傷して戦列を離れましたが、J1に残留しました。
07シーズンは藤田俊に次ぎ史上2人目のJ400試合出場を果たします。しかし10シーズンに出場機会が減少、チーム刷新のためプロ入り以来過ごした清水を離れ、市川と共に4期ぶりにJ1に復帰した甲府に移籍します。ここでは28試合と相変わらずの安定感を見せ、J1最多出場記録を作りましたが降格し、プロ20年目にして初のJ2に挑みます。城福新監督からも信頼され25試合に出場して1年でJ1に戻り、残留と自らの最多出場記録更新に挑みました。
しかしわずか6試合の上積みにとどまり、その後はJ3を主戦場にしています。

代表では、1996年アトランタ五輪の代表として召集されます。前園、中田英らが攻撃的MFだったため、西野監督により守備的MFにコンバートされます。ここでプレースタイルを確立させ、守備力の高い服部の存在もあり、前線に上がるプレーも披露できました。
本大会出場を決め、1996年7月21日のブラジルとの初戦で相手GKヂーダとDFアウダイールの連係ミスを突いて先制点を決め(マイアミの奇跡)、さらに第3戦のハンガリー戦でも前園のゴールをアシストしました。3試合出場しますが、グループリーグ突破はなりませんでした。
フル代表デビューは1997年6月8日のクロアチア戦で、平野孝と交代でピッチに入ります。翌年W杯のメンバーにも選出されましたが、プレーすることはありませんでした。
トルシエ監督就任後2試合目のブラジル戦で先発出場し、以降はスタメン出場の機会も増え、1999年コパ・アメリカやコンフェデ杯にも3試合出場しました。
しかしケガや稲本や明神の台頭により、2002年W杯には選出されませんでした。
代表記録

2006年12月17日:新規アップ 2018年12月20日更新