フィリッポ・インザーギ(Filippo INZAGHI)
フルネーム フィリッポ・インザーギ
国籍 イタリア
出身地 ピアチェンツァ
生年月日 1973・8・9
身長 181cm
体重 74kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 1997・6・8
ブラジル戦
代表背番号 9 18 19
W杯メンバー 98年 02年
06年
ニックネーム ピッポ
個人タイトル 96/97セリエA得点王
チームタイトル 94UEFAU−21欧州選手権
97/98,03/04,10/11セリエA
02/03,06/07UEFAチャンピオンズ・リーグ
06FIFAワールドカップ
07FIFAクラブワールドカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
91/92 ピアチェンツァ(2部)
92/93 レッフェ(3部) 21 13
93/94 ヴェローナ(2部) 36 13
94/95 ピアツェンツァ 37 15
95/96 パルマ 15
96/97 アタランタ 33 24
97/98 ユヴェントス 9 31 18
98/99 ユヴェントス 9 28 13
99/00 ユヴェントス 9 33 15
00/01 ユヴェントス 9 28 11
01/02 ミラン 9 20 10
02/03 ミラン 9 30 17
03/04 ミラン 9 14
04/05 ミラン 9 11
05/06 ミラン 9 23 12
06/07 ミラン 9 20
07/08 ミラン 9 21 11
08/09 ミラン 9 26 13
09/10 ミラン 9 24
10/11 ミラン 9
11/12 ミラン 9
相手DFと並ぶようにポジションをとり、一瞬のスピードでオフサイドラインから飛び出します。こぼれ球にいち早く反応するゴールへの嗅覚が卓越した典型的な背番号9です。
端正な顔立ちでたびたび浮名を流しますが、生活そのものはストイックでありサッカーにすべてをささげていることもあって、加齢をものともせず限られた機会を生かします。

1991年に地元クラブのピアチェンツァでキャリアをスタートさせ、レッフェやヴェローナと下部を転々とします。セリエAデビューは1995年8月27日のアタランタ戦となりました。
天賦のポテンシャルを生かせる場面が得られなかったため、翌シーズンにアタランタへ移籍します。これが吉と出てシーズン24ゴールを挙げて得点王に輝きました。
これによりユヴェントスへ移籍。デル・ピエロやジダンといった好選手に囲まれ、毎シーズン2ケタゴールを挙げました。2000年2月20日ヴェネツィア戦で4−0と勝利した試合でハットトリックをマークしましたが、このプレーでデル・ピエロやクラブと確執が生まれて退団しました。
01/02シーズンよりミランでプレー。同時に加入したルイ・コスタの存在もあり、ユヴェントス時代と同様の活躍が見込まれました。10ゴールと少なめでしたが、UEFA杯で7試合4ゴールと埋め合わせました。2年目はピルロの台頭もあってチャンスが広がり、チャンピオンズ・リーグ予備選ではS・リベレツとの両試合でゴールを挙げグループリーグに進出、本戦でも準々決勝アヤックス戦など10ゴールを挙げてビッグイヤーを獲得しました。
その後2年間は慢性化したケガに苦しみましたが、05/06シーズンはアウェーのレッジーナ戦でハットトリックを決め、チャンピオンズ・リーグでもバイエルンやリヨン相手に1試合2ゴールを挙げます。翌シーズンはリーグでは精彩を欠きましたが、クラブW杯ではボカとの決勝で2ゴール、チャンピオンズ・リーグ決勝リヴァプール戦でも2ゴールを挙げてクラブに2冠をもたらしました。07/08シーズンも国内リーグ終盤の7試合で10ゴールと爆発力を見せました。
翌シーズンは2度のハットトリックに加え、アウェーのシエナ戦ではピオラ、メアッツァ、R・バッジョに続くセリエA通算300ゴールを達成、UEFA杯でも6試合で3ゴールを挙げました。
09/10シーズンからスーパーサブとなり、リーグこそ2ゴールでしたが、チャンピオンズ・リーグのマルセイユ戦で2ゴールをマーク。翌シーズンはチャンピオンズ・リーグの本拠R・マドリー戦で途中出場から2ゴールを挙げ、名指しで警戒していたモウリーニョ監督の度肝を抜きます。これにより欧州カップ戦での通算ゴール数は70としました。
しかしイブラヒモヴィッチ、ロビーニョ、カッサーノなどの存在に加齢もあって出番が減り11/12シーズンで引退。そのままクラブに残り、下部組織での指導に携わっています。

フル代表デビューは1997年6月8日のブラジル戦。1998年と2002年にW杯出場を果たし、後者の予選はチーム最多の7ゴールを挙げる活躍を見せました。
2000年欧州選手権では2ゴールを挙げるも決勝はベンチスタートになり、2004年欧州選手権予選でチーム最多の6ゴールを挙げましたが、本大会の成績にはつながりませんでした。
2006年W杯予選の出場はなく、若手の台頭もあり本大会行きは微妙でしたが、チャンピオンズ・リーグやリーグ戦で突如ゴールを量産して全盛期のパフォーマンスがよみがえり、土壇場で本大会行きのチケットを獲得しました。本大会ではチェコ戦の後半に1トップのジラルディーノと交代出場し、終了間際のカウンターからダメ押しゴールを挙げて優勝に貢献しました。
代表記録 56試合24得点
2006年2月2日:新規アップ 2012年7月25日更新