ポール・インス(Paul INCE)
フルネーム ポール・エメルソン・カーライル・インス
国籍 イングランド
出身地 イルフォード
生年月日 1967・10・21
身長 179cm
体重 77kg
利き足
ポジション MF(CMF)
FK PK  
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1992・9・9
スペイン戦
代表背番号
W杯メンバー 98年
ニックネーム  
個人タイトル  
チームタイトル 89/90,93/94FAカップ
90/91UEFAカップウィナーズ・カップ
92/93,93/94プレミアリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
86/87 ウェストハム 10
87/88 ウェストハム 28
88/89 ウェストハム 33
89/90 ウェストハム(2部)
89/90 マンチェスター・ユナイテッド 26
90/91 マンチェスター・ユナイテッド 32
91/92 マンチェスター・ユナイテッド
92/93 マンチェスター・ユナイテッド 41
93/94 マンチェスター・ユナイテッド 39
94/95 マンチェスター・ユナイテッド 36
95/96 インテル(イタリア) 8 30
96/97 インテル(イタリア) 8 24
97/98 リヴァプール 17 31
98/99 リヴァプール 17 34
99/00 ミドルスブラ 12 32
00/01 ミドルスブラ 12 30
01/02 ミドルスブラ 9 31
02/03 ウォルヴァーハンプトン(2部) 37
03/04 ウォルヴァーハンプトン 8 32
04/05 ウォルヴァーハンプトン(2部) 8 28
05/06 ウォルヴァーハンプトン(2部) 8 18
06/07 スウィンドン(4部)
06/07 マックルスフィールド(4部)
高い身体能力とすさまじい運動量を武器に、執拗なマンマークと流血さえいとわない荒々しいボディコンタクトでボールを奪取、時折見せる強力なミドルでゴールを狙うこともあります。
力強いプレーと共に強烈なキャラクターとキャプテンシーの持ち主でもあり、「イングランドの心臓」と呼ばれるほど、中盤で絶大なる存在感を発揮します。

少年時代に応援していたウェストハムに練習生として入団し、86/87シーズンの9月30日ニューカッスル戦でトップリーグデビューを果たします。その後レギュラーとして中盤に君臨したものの、チームが降格となったためマンチェスター・Uに引き抜かれます。
ブライアン・ロブソンと中盤でコンビを組み、90/91シーズンに決勝でバルセロナを下してカップウィナーズ杯を手にすると、92/93シーズンからのリーグ連覇にも貢献しました。
95/96シーズン、下部組織からのバットの台頭によりセリエAへ活躍の場を移し、サモラーノ、カヌ、ジョルカエフといった豪華な攻撃陣をスフォルツァやヴィンテルらと共に支えます。2年目にはUEFA杯で決勝にコマを進めますが、シャルケに敗れました。リーグでは及第点の結果を出しますが、人種差別問題に苦しみ、イタリアでの生活は2年で終わりました。
リヴァプールではチームの中心となりましたが、99/00シーズンに就任したウリエ監督が若いジェラードを起用するため構想から外れ、ミドルスブラへ移籍します。かつての僚友ロブソン監督の下、ガスコインと中盤でコンビを形成。キャプテンとしてもチームをプレミア残留に導き、クラブとの契約が満了します。その後はウルヴズのプレミア昇格に貢献しました。
一度は現役引退を考えていたものの、クラブからの要請を受けて現役続行を決意、チームは降格したものの残って2年間プレー。06/07シーズンを最後に引退しました。
その後は指導者となり、08/09シーズン、マンチェスター・Cへ移ったヒューズ監督の後任としてブラックバーンに就任。黒人として初めてイングランドのトップリーグで指揮を執ることになりましたが、成績不振によりシーズン途中で解任されています。

1992年9月9日スペイン戦で代表デビュー。翌年6月9日アメリカ戦ではプラットやアダムスの欠場により黒人初のイングランド代表キャプテンになるなど不動の地位を確立させます。しかし1994年W杯予選は8試合出場しますが、まさかの敗退となりました。
2年後の欧州選手権で4試合に出場。1998年W杯予選では6試合に出場し、最終節ポーランド戦で流血するもののピッチに立ち続け、治療後も止血できない中ユニフォームを赤く染めながらも終了までプレーする気迫を見せました。本大会でも全4試合に出場し、アルゼンチン戦でのベッカム退場後の奮闘は、メディアから母国の名誉を守ったと報じられました。
2000年欧州選手権でも3試合プレーしています。
代表記録 53試合2得点
2009年11月10日:新規アップ 2012年9月9日更新