稲本 潤一(Junichi INAMOTO)
フルネーム 稲本 潤一(イナモト ジュンイチ)
国籍 日本 稲本
出身地
生年月日 1979・9・18
身長 181cm
体重 75kg
利き足
ポジション MF(DMF)
FK PK  
キャプテン経験 代表
代表デビュー 2000・2・5
メキシコ戦
代表背番号 5 17 20
W杯メンバー 02年 06年
10年
ニックネーム イナ
個人タイトル 00Jリーグベストイレブン
チームタイトル 00AFCアジアカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
97 ガンバ大阪 29 27
98 ガンバ大阪 6 28
99 ガンバ大阪 6 22
00 ガンバ大阪 6 28
01 ガンバ大阪 6 13
01/02 アーセナル(イングランド) 19
02/03 フルハム(イングランド) 6 18
03/04 フルハム(イングランド) 6 22
03/04 WBA(イングランド)
04/05 カーディフ(イングランド2部) 26 12
05/06 ウェスト・ブロムウィッチ(イングランド) 33 22
06/07 ガラタサライ(トルコ) 23 25
07/08 フランクフルト(ドイツ) 20 24
08/09 フランクフルト(ドイツ) 20 19
09/10 レンヌ(フランス) 6
10 川崎フロンターレ 20 28
11 川崎フロンターレ 20 12
12 川崎フロンターレ 20 20
13 川崎フロンターレ 20 25
14 川崎フロンターレ 20 14
15 コンサドーレ札幌(J2) 17 31
16 北海道コンサドーレ札幌(J2) 17
17 北海道コンサドーレ札幌 17
18 北海道コンサドーレ札幌 17
19 SC相模原(J3) 6    
フィジカルに長けた日本屈指の大型ボランチ。正確な右足でのフィードやミドルに加え、自らドリブルやオーバーラップを仕掛けるなどダイナミックなプレーが持ち味です。

鹿児島県出身。生後2ヶ月で大阪に引っ越しました。小学校に入学してまもないころから、サッカーを始めます。やがてG大阪のユースチームに入り、それまで攻撃的なポジションを務めていたところをボランチにコンバートされ、成長していきました。
1997年4月のホームでの平塚(現湘南)戦、17歳6ヶ月でJリーグデビューし当時最年少の記録を作ると、翌週の清水戦でクルプニコヴィッチのアシストを受け、17歳7ヶ月の最年少記録となるJ初ゴールを記録。デビュー以来レギュラーでコンスタントに出場し、チーム生え抜きの選手として活躍、2000年にはベストイレブンにも選出されました。
2001年、川口や小野が欧州移籍を決定する中で自身も強豪アーセナルと契約。イングランドのクラブとプロ契約を結んだ最初の日本人選手となります。しかし、絶対的存在のヴィエラなどの壁が厚く出場機会に恵まれず、不完全燃焼に終わりました。
2002年W杯での活躍後、同じロンドンをホームタウンとするフルハムに移籍します。8月13日のボローニャとのインタートト杯決勝第1戦に海外初ゴールを挙げると、第2戦ではプロのキャリア初のハットトリックを決め、UEFA杯出場権獲得に貢献しました。
WBA移籍後1度レンタル移籍があり、徐々に出場機会を得ますが、2部に降格しました。その後期限の最終日の2006年8月31日にガラタサライに移籍し、すぐにレギュラーに定着します。そしてアーセナル在籍時以来のチャンピオンズ・リーグに出場し、アウェーのボルドー戦ではセルティックの中村俊に続く日本人2人目のゴールを挙げ、低調なチームの中で気を吐きました。07/08シーズンよりフランクフルトへ移籍し、8月11日H・ベルリンとの開幕戦でブンデスリーガにデビュー。高原との長年築いた連係を披露して9位とまずまずの成績を残しました。
09/10シーズン、プロデビュー時のG大阪の監督だったアントネッティ率いるレンヌに入団するも出番に恵まれず、川崎と契約して約9年ぶりのJ復帰を果たします。1年目は中村憲とのコンビで28試合に出場し、2年目も8戦無敗の原動力となりましたが、ケガで離脱しました。14シーズンは大島の台頭などもあり14試合に終わって退団しました。
15シーズンに札幌へ移り初めてのJ2に挑みます。C大阪戦ではオウンゴールを喫しますが、同点に追い付き事なきを得ました。チームは10位に終わりました。その後もベンチを温めるシーズンが続き、18シーズンを最後に退団しました。
19シーズン、J3相模原に入団しています。

1995年U−17世界選手権、1999年Wユースでは共に3試合に出場。後者では直前のケガの影響もあり、主力としてプレーすることはできませんでした。2000年2月5日のメキシコ戦でスタメン出場してフル代表デビューすると、同年のシドニー五輪ではU−23として出場。グループリーグのスロヴァキア戦でゴールを挙げて存在をアピールし、全4試合フル出場しました。
2001年コンフェデ杯で4試合出場して準優勝になった後、翌2002年W杯では、ベルギー戦で勝ち越しゴールを挙げて日本のW杯初の勝ち点獲得に貢献すると、続くロシア戦でも決勝ゴールを挙げて勝利に貢献。チームを決勝トーナメントに導き、世界に存在を大きくアピールしました。2003年と2005年のコンフェデ杯にもそれぞれ出場しました。
2004年の欧州遠征、イングランドとの親善試合以降代表から離れて福西にポジションを明渡し、2006年ドイツW杯の予選にもほとんど出場しませんでした。本大会ではクロアチア戦の後半からピッチに立ち、ましたが、チーム自体が低調だったこともあり持ち前の攻め上がりが見られず、4年前ほどのインパクトは残せませんでした。
2010年W杯予選では、クラブの都合やケガなどで合流できず1試合の出場に終わりますが、以降の国際試合で存在感を示して本大会メンバーに入ります。そして日本が勝利した2試合に出場し、自身2度目のベスト16入りを果たしています。
代表記録

※:鹿児島県湧水町
2006年8月31日:新規アップ 2019年1月26日更新