ウーゴ・サンチェス(HUGO SANCHEZ)
フルネーム ウーゴ・サンチェス・マルケス
国籍 メキシコ
出身地 メキシコシティ
生年月日 1958・7・11
身長 176cm
体重 73kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1977・9・27
アメリカ戦
代表背番号
W杯メンバー 78年 86年
94年
ニックネーム  
個人タイトル 78/79メキシコリーグ得点王
84/85,85/86,86/87,87/88,89/90
リーガ・エスパニョーラ得点王
86/87,89/90リーガ・エスパニョーラ最優秀外国人選手
89/90ゴールデンシュー
チームタイトル 76/77,80/81メキシコリーグ
77CONCACAF選手権
80CONCACAFチャンピオンズ・カップ
81コパ・インテルアメリカーナ
84/85,88/89コパ・デル・レイ
85/86,86/87,87/88,88/89,89/90リーガ・エスパニョーラ
85/86UEFAカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
76/77 UNAM 20
77/78 UNAM 30 11
78/79 UNAM 37 26
79 サンディエゴ(アメリカ) 10
79/80 UNAM 38 29
80 サンディエゴ(アメリカ)
80/81 UNAM 36 19
81/82 アトレティコ・マドリー(スペイン) 20
82/83 アトレティコ・マドリー(スペイン) 31 15
83/84 アトレティコ・マドリー(スペイン) 27 12
84/85 アトレティコ・マドリー(スペイン) 33 19
85/86 レアル・マドリー(スペイン) 33 22
86/87 レアル・マドリー(スペイン) 41 34
87/88 レアル・マドリー(スペイン) 36 29
88/89 レアル・マドリー(スペイン) 35 27
89/90 レアル・マドリー(スペイン) 35 38
90/91 レアル・マドリー(スペイン) 19 12
91/92 レアル・マドリー(スペイン)
92/93 アメリカ 25
93/94 ラーヨ・バジェカーノ(スペイン) 29 16
94/95 アトランテ 30 13
95/96 LASK(オーストリア) 20
96/96 ダラス(アメリカ) 23
96/97 アトレティコ・セラヤ 12
アクロバットなシュートを得意とするメキシコの国民的英雄。独特の得点感覚があり、父や兄がサッカー選手で妹も体操選手という家族譲りの身体能力で、バック天も難なく決めます。

幼少期からセミプロだった父親とストリートでテクニックを磨きます。勉学にもいそしみ、メキシコの国立自治大学に入学してUNAMに加入。その後サンディエゴに期限付き移籍しました。
81/82シーズンに名門A・マドリーに加入しますが、当初スペイン国内での反応は懐疑的でした。チームメートからパスをもらうことができない時期があるなど、周囲との関係もうまくいかず苦悩の日々が続きましたが、在籍4年目に19ゴールを挙げ、メキシコ人として初めて国外リーグの得点王に輝きました。また、国内カップも獲得しています。
バルセロナにR・マドリーと国内2強からオファーが届き、後者を選択します。すぐに適応してバルダーノやブトラゲーニョと共にチームをリーグ制覇に導き、得点王になりました。その後もリーグ優勝4回、得点王を3回獲得する輝かしいキャリアを築きました。
晩年はケガで何度も戦列を離れ結果を残せず、90/91シーズンを最後に退団。一度母国でプレーし健在をアピールした後再びスペインへ。R・バジェカーノに移籍して若きウルサイスの手本となり、首都のクラブすべてでプレーしたことになりました。1年で退団して再び母国へ帰還した後は国内のクラブを渡り歩き、1997年4月26日にスパイクを脱ぎました。
その後は指導者として母国の代表監督などを務めています。

UNAM時代に脚光を浴び、モントリオール五輪で3試合に出場しますが1ゴールに終わり、グループリーグで敗退しました。1977年にフル代表デビューし、翌年W杯予選で5試合に出場、本大会でも20歳の若さながらチームの主力として全3試合に出場しました。1982年大会は7試合戦いますが本大会でのプレーはなりませんでした。
1986年W杯は3試合戦い、ベルギー戦ではCKからヘディングを決めます。最終的にはベスト8進出を果たしてホスト国としての面目を保ちました。そして1994年W杯予選にも召集され5試合、本大会でも1試合に出場して、息の長い代表生活を終えました。
代表記録 60試合29得点
2006年6月5日:新規アップ 2012年8月23日更新