本田 圭佑(Keisuke HONDA)
フルネーム 本田 圭佑(ホンダ ケイスケ)
国籍 日本  
出身地 大阪府摂津市
生年月日 1986・6・13
身長 182cm
体重 74kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 2008・6・22
バーレーン戦
代表背番号 4 18
W杯メンバー 10年 14年
ニックネーム ケイスケ
個人タイトル 10日本年間最優秀選手
11AFCアジアカップ最優秀選手
チームタイトル 11AFCアジアカップ
12/13ロシアリーグ
12/13ロシアカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
04 名古屋グランパス 39
05 名古屋グランパス 24 31
06 名古屋グランパス 24 29
07 名古屋グランパス 24 30
07/08 VVV(オランダ) 29 14
08/09 VVV(オランダ2部) 29 36 16
09/10 VVV(オランダ) 10 18
10 CSKAモスクワ(ロシア) 7 28
11/12 CSKAモスクワ(ロシア) 7 25
12/13 CSKAモスクワ(ロシア) 7 23
13/14 CSKAモスクワ(ロシア) 7 18
13/14 ミラン(イタリア) 10 14
14/15 ミラン(イタリア) 10 29
15/16 ミラン(イタリア) 10 30
16/17 ミラン(イタリア) 10
17/18 パチューカ(メキシコ)    
左SB、トップ下、右WG、有事でのCFと、時の監督が求める役割をそつなくこなします。重量感のあるキープで周りを使い、自らもパス交換からエリア内に入ってゴールを狙います。
トレードマークの左足シュートやFK、困難にも折れない精神力と高い競争意識に裏付けされた言動で、ピッチ内外に渡りチームを力強くけん引します。

父親の影響を受け、小学2年から地元の摂津FCでサッカーを始めます。高学年からプロを意識するようになり、中学時代はG大阪のジュニアユースに入団します。
ここで家長昭博と出会います。誕生日と利き足が同じというライバルと切磋琢磨し、クラブユース選手権や全日本ユースでベスト8になりました。身体的な理由でユースに昇格できませんでしたが、高校選手権への憧れもあり星陵に進学します。ここで鍛えてフィジカルを成長させ、3年連続で高校選手権に出場します。3年次に主将に就任し、県大会では得点王、アシスト王、最優秀選手と個人タイトルを総なめにすると、本大会では岡崎や森島康擁する滝川二相手に2ゴール1アシストを見せるなど、チームを石川県勢初のベスト4進出に導いたのです。
そして名古屋に強化指定選手として入り、7月24日ナビスコ杯磐田戦で途中出場します。高校卒業後に正式に入団し、2005年3月5日千葉戦にて高卒ルーキーとしてクラブ史上4人目となる開幕スタメンでJデビューし、アシストを記録。4月28日東京V戦で初ゴールを挙げました。さまざまなポジションでのプレーを強いられるものの難なく対応し、欠かせない存在となりました。06シーズンは6ゴールのうち3ゴールがFKと精度の高さを示しました。
07シーズン終了後にフェルフォーセン監督の仲介でVVVへ移り、2008年1月20日PSV戦でエールディヴィジにデビュー。3月15日フェイエノールト、NECと2節連続ゴールを挙げるなど14試合に出場しますが、チームは降格しました。しかし、これが元来ボランチや左サイドなど複数の位置で攻守のバランスを取るスタイルから、前線でゴールを目指す方向に転換するきっかけとなります。36試合戦い、アウェーのハーレムやホームのフォルトゥナ相手の2ゴールなど16ゴール13アシストを記録して2部の最優秀選手に選ばれました。ホームのハーレム戦で1年での1部復帰が決まり、主将として優勝皿を掲げる自身の周りに歓喜の輪ができました。
2年目はPSVとの開幕戦以降4試合連続ゴールと1部でも実力を証明し、カップ戦でもADO相手に2ゴールを決めて好調をキープします。国内のアヤックスやPSVに加え、リヴァプールやエヴァートンなどが興味を示す中、2010年1月にC・モスクワと4年契約を結びます。
そしていきなりチャンピオンズ・リーグの大舞台を踏み、セビージャとの決勝トーナメント初戦2ndレグで30mのFKを決めてクラブ初のベスト8進出に貢献(決勝トーナメントでのゴールは日本人初)。続く準々決勝では優勝するインテルの堅い守備に阻まれました。
2010年3月12日、アムカルとのロシアリーグデビュー戦をゴールで飾り勝利に貢献。3戦目のアンジ戦でも同点ゴールでチームの逆転勝ちを呼び込みます。ボランチ起用を構想する監督とトップ下を求める自身との間に衝突もありましたが、ヂャゴエフのサイドへの適応もあって事なきを得、ドゥンビアやV・ラヴ、トシッチ、ムサと多国籍のアタッカーと連係、幾多のヒザのケガを乗り越え、12/13シーズンに国内2冠を達成しました。13/14シーズンはL・モスクワとのダービーで先制点を挙げて勝利に貢献し、チャンピオンズ・リーグでもプルゼニ相手のゴールやマンチェスター・C相手の先制アシスト、バイエルン相手のPKと結果を残しました。
そしてシーズン途中にミランへ移籍して数多の報道に終止符を打ち、多くのワールドクラスが着けた10番を継承して小学校の卒業文集に書いた夢を現実にします。1月12日サッスオーロ戦でセリエAにデビューし、続くカップ戦で移籍初ゴールを挙げました。10番の先達であるセードルフ監督からはコンスタントに起用されましたが、カカやバロテッリとのコンビネーションは機能せず、リーグ戦はアウェーのジェノア戦の1ゴールに終わりました。
2年目は両者が退団し、インザーギ監督から右WGを任されます。そして開幕のラツィオ戦やH・ヴェローナ戦など前半戦で6ゴールを挙げますが、後半はローマ戦の2アシストにとどまりました。ミハイロヴィッチ体制となる3年目は、ローマやミラノダービーでアシストするも1ゴールとボナヴェントゥーラに見劣りし、チームもヨーロッパリーグ圏内にも入れませんでした。4年目はスペイン人FWスソの活躍もありベンチが定位置となりましたが、ホーム最終戦でFKを決めました。
17/18シーズンにパチューカへ移籍しています。

2005年Wユースは控えとして1試合出場。北京五輪予選で主軸となり、香港戦では2度曲がるFKを決めました。本大会は3連敗でグループリーグ敗退となりました。
オシム監督からも招集されましたが、岡田監督の下で臨んだ2008年6月22日バーレーン戦でフル代表にデビューします。大黒柱の中村俊とはトップ下、右サイド、左のFKキッカーと役割が重なるため、彼との共存もチーム個人双方のテーマとなりました。
チームは2010年東アジア選手権で3位になり、不振からの脱却に布陣が4−2−3−1から4−3−3に変更され、W杯を前にトップ下から未経験のCFを託されます。中村俊がベンチに回ったことで重圧が増しますが、この難局をカメルーンとの初戦までに解決し、先制点を決めてチームに勝利をもたらします。3戦目のデンマーク戦では長距離の無回転FKで大舞台を彩りました。PK戦にもつれたパラグアイとの決勝トーナメント1回戦では、直前の駒野のミスに動じず4人目のキッカーとして成功させますが、相手の5人目が決めて戦いが終わりました。
ザッケローニ監督のチームから香川と二枚看板となり、2011年アジア杯は5試合に出場してシリア戦でPKを決めるなど2大会ぶりの優勝に貢献してMVPになりました。
これを受けて出場した2013年コンフェデ杯はイタリア戦でPKを決めるなど善戦しますが、チームは3連敗に終わって世界との差を痛感することになりました。
2014年W杯予選は6試合戦い、ホームのヨルダン戦でハットトリックを達成するなど5ゴールを挙げて2大会連続出場を果たします。本大会ではコートジボワール戦の先制弾やコロンビア戦での岡崎へのアシストと最低限の役割は果たしましたが、コンディション不良もあって本領発揮には至らず、チームの劣勢を覆す活躍には至りませんでした。
アギーレ監督のチームでは右WGとなり、2015年アジア杯ではグループリーグで3試合連続ゴールを決めます。しかしUAEとの準々決勝はPKを外して敗れました。
代表記録

2016年9月1日:新規アップ 2017年7月14日更新