平山 相太(Sota HIRAYAMA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 平山相太(ヒラヤマ ソウタ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | ※ | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1985・6・6 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 190cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 81kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | PK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2010・1・6 イエメン戦 |
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代表背番号 | |||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ソウタ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 09ナビスコカップ | ||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
05/06 ヘラクレス(オランダ) 17→9 | 31 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
06 FC東京 39 | 7 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
07 FC東京 13 | 20 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
08 FC東京 13 | 24 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
09 FC東京 13 | 26 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
10 FC東京 13 | 30 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
11 FC東京(J2) 13 | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
12 FC東京 13 | 4 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
13 FC東京 13 | 21 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
14 FC東京 13 | 19 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
15 FC東京 9 | 2 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
16 FC東京 9 | 15 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
17 ベガルタ仙台 9 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
長身から繰り出す打点の高いヘディングや当たりの強さ、得点力、ポストプレー、足元のスキルなどを高いレベルで備えた本格派のCFです。 国見高校1年で全国高校選手権で優勝、2年では全国高校選手権で準優勝し、自身は7得点で得点王に輝きました。3年生で再び全国高校選手権を制し、大会最多タイの9得点で大会史上初の2年連続得点王になります。高校通算で17得点を挙げ、北嶋秀朗(市立船橋)の持つ大会通算記録の16得点を更新しました。高校卒業後はプロに進まず、筑波大へ進学を選びました(欧州移籍時に大学は休学し、後に退学届を出しています)。 2005年Wユースの活躍により、同国ヘラクレスに入団。8月20日ADOとのリーグデビュー戦で途中出場から2得点を挙げ、通算31試合8得点で1部残留に貢献しました。 しかし06/07シーズン開始直後、オランダ語の習得の遅れや身体のコンディション調整の不備によりクラブの会長から事実上の戦力外通告を受けました。その後の動向が注目されましたが、Jリーグクラブの多数のオファーを選んだ末FC東京への入団を決め、2006年9月30日新潟戦で逆輸入的にJリーグデビュー、10月7日名古屋戦で早くも初得点を挙げました。 ヘディングの名手だった原監督に指導を受けるものの、07シーズンは5得点に終わるなど精彩を欠きました。しかし09シーズンのナビスコ杯では準々決勝以降の5試合で4得点と見事な成績を残し、チームに2度目のタイトルをもたらしました。 10シーズンも大熊監督の復帰以降12試合8得点と決定力を見せますが、降格となります。自身含め多くの主力が残り、初のJ2では得点王が期待されました。しかし練習試合で相手GKと接触して骨折し、1年でJ1に復帰するチームの力になれませんでした。 その後もケガや渡邉千、エドゥ、武藤の存在により満足なプレーができない状況が続きました。それでも16シーズンは全5得点がチームの勝ち点獲得につながりました。 その後仙台へ完全移籍するもケガでシーズンを棒に振り、引退を決意しました。 J1:168試合33得点 J2:1試合 ユース代表では、2003年Wユース選手権で4試合2得点1アシストでチームのベスト8入りに貢献。2004年にはとび級でアテネ五輪メンバーに入り、1試合戦いました。 2005年Wユースでも4試合戦い、アフェライやバベル擁する開催国オランダからヘディングを決めるなどベスト8に進みますが、豊田や岡崎の台頭により北京五輪出場を逃しました。 しかし国内で結果を出して2010年1月6日イエメン戦にてフル代表デビュー。ハットトリックを見せて2010年W杯メンバー候補に名乗りを挙げますが、最終的には外れました。 代表記録 4試合3得点 ※:福岡県北九州市 2006年3月29日:新規アップ 2018年1月26日更新 |